「水滸伝」は文字を知らない民衆の愉しみのために、語り継がれた物語。 |  今中基のブログ

 「水滸伝」』 ----水のほとりの物語』 ----は、今から五百年ほど昔、今見るような形にまとめ上げられた中国の代表的な小説です。宋江以下百八人の好漢が梁山泊を根城に、弱きを助け強きをくじいて、血沸き肉躍る大活躍をする、豪快無比な物語で、中国はもとよりわが国でも古くから多くの人々に親しまれて来ました。発行されている『水滸伝』の図書数は他に類を見ない多さです。

註)水滸伝は中国,明代の長編小説。元の施耐庵(したいあん)作,明の羅貫中編とされるが,異説あり。100 回本,120 回本など版本は多いが,金聖嘆編集の70 回本が最も流布した。
 「水滸伝」はもともと講談をもとにして書きまとめられたもので、文字を知らぬ民衆を楽しませるために、たいへん趣向をこらしてあります。したがい五百年後の今日、外国人のわれわれが読んでもすごく面自いのです。あまり面白すぎるために、かえって名著としての疑問をいだく人もいます。
 「何だ、ただのチャンバラじゃないか、ドタバタ騒ぎの連続じゃないか?」と そうかも知れませんが、それはそれでも良いのではないかと思います。
しかし、そうしたドタバタ騒ぎの中にも、中国民衆のよろこびや悲しみ、平和を愛し不正を憎む中国民衆のせつない願いや祈りが、そのまま滲み出ているのも確かです。
 「水滸伝」の原文は講談調の古い口語体の文章で、今日では本国の専門の学者にも判らなくなっている語句も多く出てくるそうます。中国の読者もそういうところは多分飛ばして読んでいると思われます。
 「水滸伝」のテキストは沢山ありその中で、わが国でも中国でも一番よく読まれているのは七十回本です。しかし、実はこれも「水滸伝」を途中で切って、無理をして結末をつけ加えたもので、話としては中途半端な感じがあるのも確かです。
 そこで最も完備していると思われる百二十回本に絞ってみました。
 しかし百二十回本を日本語に訳しますと今までのところまだ完訳はありません)、四百字詰めの原稿用紙で五千枚以上になるからです。ここで取り上げたものは、それを五分の一くらいに縮めたものですが、この本がただの筋書に終らぬようにと工夫されています。一般の読者にはあまり興味がないと思われるところは圧縮されていますが、大事なところは原書のままで、大人にも子供にも興味深いものとなっています。


 しかしそのために「水滸伝」の性格は一変してしまっています。「忠義水滸伝」は真向から否定され、宋江ら百八人の好漢は、忠臣義士の座から引きずりおろされて、純然たる盗賊の群となってしまっています。
 宋江は、百回本・百二十回本では忠義の権化のような人物となっていますが、金聖敷に言わせると、もっとも腹黒い大悪人、人物から言っても下の下であって、あの鶏泥棒の鼓上重時遷と似た程度の小人です。宋江が常に口にする忠孝という言葉にたぶらかされ『彼をもって忠臣孝子となし、「水譜伝」に「忠義」の二字を冠するのは、物を見る目のない俗物の証拠である』と金聖敷は断言しています。そして、宋江の「十大不可」を列挙して、その不忠不義の盗賊たることを証明し、宋江のすることなすこと総てが腹黒い魂胆あっての仕業だと言っています。その辛練さは壮絶なものです。その上、宋江の腹黒さをあらわすためには、本文の書きかえまでを行っています。私が「水滸伝」を読んでも、宋江のどこが偉いのか、さっばりわからないうえに、宋江の小細工を弄するところ、謙遜の度が過ぎて、見えすいたようなことを言うところに、偽善者的ないや味も感じます。李卓吾評でもそのことに言及して、百八人の人物の優劣を論ずるや、李達をもって「梁山泊第一の活仏」となし、これに次ぐのは石秀、魯智深、武松らであるとなし、しかして宋江・呉用に対してはその権謀を謗って「仏性潮滅し殆ど尽く」と評しています。金聖歌はその考えをさらに徹底的におし進めたもので、その徹底的なところがいかにも金聖敷らしい面自さを持ちます。その解釈と書きかえによって、「水滸伝」は文学的に一段と磨きがかかり、精神的にも著しく近代的な深みが加わりました。

 <高俅について>

 高俅は典型的な悪人として描かれており、彼と彼の一族は私利私欲のために権力を濫用した九紋龍史進の師匠であり、自身が恨みを持つ亡き王昇の息子で亡父と同様の禁軍師範・王進の官職を剥奪し、その出奔の原因を生み出しました。また、養子の高衙内が王進と同じ禁軍師範の豹子頭 林冲の妻に横恋慕をしていたために、林冲を冤罪に陥れ、柴進が梁山泊へ入るきっかけを作ったのです。また方臘討伐後に凱旋し官職についた宋江、盧俊義らの暗殺を謀り成功させています。そのことを徽宗に責められるのですが、天子も基本的には高俅を信用しているため、特に罰を受ける事はありませんでした。水滸伝最大の悪役にもかかわらず、五体無事のまま最終回を迎えた高俅ですが、二次創作小説『水滸後伝』においては失脚して配流される途中で、李応ら梁山泊の残党に遭遇し、それまでの悪事を散々罵られた挙句、鴆毒を盛られて悶死しています。


 一方宋江は、素朴な民衆が折角 長いあいだ忠義双全の英雄として仕立てあげて来たイメージを、金聖敷が知識階級的立場から容赦なく叩き壊し、強引に不忠不義の盗賊の群としてしまうことに対しては、昔から反対意見も多いようです。ことに最近では、梁山泊を一種の農民一揆と見る見方が有力で、その立場からの、金聖敷への風あたりは、かなり強いものがあります。と言うよりむしろ否定的で 金聖敷の生きていた明末清初の時代は、大小の流賊が天下に横行し、罪のない人民がその害毒に苦しんでいた時代でした。その悲惨な実状をじっさい目にした金聖歌が、「水譜伝」に対してこのような見方をしたのも、あるいは自然だったかも知れません。時代により立場によって文学に対する判断が違って来るのはむしろ当然と言えます。
 核となるストーリーの中でも「山賊であった宋江が朝廷に帰順し、方臘征伐に活躍する」という部分は、とりわけ重要であり、長年のあいだ史実と信じられていました。しかし1939 年陝西省府谷県において、北宋末の范圭という人物が撰した「宋故武功大夫河東第二将折公墓誌銘」という史料が発見されたことで、異説がとなえられました。これは北宋末に方臘征伐に参戦した折可存という武人を称えた墓誌ですが、宣和3年(1121 年)に方臘を捕らえた後、都へ凱旋の途中に草寇の宋江を追捕したと記されていたからです。これを文字通り読めば、方臘征伐時点ではまだ宋江は朝廷に投降していなかったことになります。


 <宋江について>
 もともと地主の息子(次男)で県の胥吏(地元採用の小役人)を務めており、黒三郎の通称を持つ風采の上がらない小男ですが、義を重んじ困窮する者には援助を惜しみなく与えることから世間の好漢に慕われていました。登場したのは三十歳くらいの頃。大金を強奪した晁蓋らを見逃したことを妾・閻婆惜に知られて、行きがかり上殺してしまったことから逃亡を余儀なくされます。様々な境遇を転々とし柴進邸・孔太公邸・青州清風鎮の花栄邸・江州などを流転、その間数多くの人物と出会って彼らの梁山泊入りへの案内人となります。宋江自身が梁山泊に入った後は晁蓋の下の第2 位の頭領となるのですが、実質的には第1 位に近い存在となり、梁山泊軍を率いての外征(祝家荘・高唐州)には総大将として出陣します。曽家村攻めで晁蓋が戦死した後は、仲間から推されて頭領に推されるが固辞します。
そして北京の大商人盧俊義を頭領の座を譲ろうとしますが、互いに譲り合い、紆余曲折の末に宋江が梁山泊軍の総首領、盧俊義が副頭領となるのです。
宋江は山賊の首領でありながらも替天行道・忠義双全の旗を掲げ、朝廷に忠義を尽くすことを望んでいました。のちに朝廷から招安を受けて罪を赦され、梁山泊の軍勢を率いて北方異民族 遼や宋国内の方臘配下の反乱軍討伐に活躍しますが、事が成った後、朝廷の腐敗した高官により無実の罪に陥れられ、毒を与えられて死亡してしまいます。
水滸伝はフィクションとはいえ長編で且つ諸説も多く、時代ごとに書き加えたり、善人ともおぼしき人物が極悪人になるなど多岐多様の物語です。これぞまさしくスケールに幅のある、いかにも超大国の中国にふさわしい諸説紛々の物語と言ってよいと思います。