項羽と劉邦のリーダーシップは現代にも通じる?・・・。② |  今中基のブログ

 

 項羽は劉邦という存在を見誤っていた。なるほど、劉邦は政略の才も軍略の才も無きに等しい一介の無能人であったが、家臣の心を強烈に惹きつけて離さぬ余人にない人望があった。劉邦の軍勢とは、劉邦という一個の「虚」が頂上に寝転び、配下の将達がその「虚」を埋めようと懸命に知恵を絞るというところに不思議な強さがあった。劉邦を斬ると息巻く項羽の気力をも萎えさせるようなその特異な人格的魅力によって士卒を結束させながらも劉邦という存在はがらんどうの「虚」であり、逆説的ながらその「虚」の下でこそ将達はその能力を最大限に発揮する。賢者は知恵の限界が自身の限界となるものの、「虚」の存在は幾人もの賢者をその中に抱えて用いることができる。難攻不落の関中の攻略に成功したのも配下の進言によるものであり、例えるならば宰相の蕭何、軍師の張良などの稀代の能臣達が劉邦という巨大な杯を支えてその中になみなみと酒を注ぐというような、世にも奇怪な構造を備えていることを項羽は見ぬくことができなかった。


 項羽の主力軍たちにより、ついに秦は滅びた。天下は戦国期の封建制に戻り、滅秦の盟主である項羽によって各地は諸侯に分封された。項羽自身は「西楚覇王」と号し、楚北方の彭城に居を構えた。一方、劉邦は西南の漢の王に封じられるものの、漢は峻険な山々に隔絶させられた僻地であった。とはいえ高峻さえ乗り越えれば関中へ攻め込むことは容易であり、部下の進言を受け入れた劉邦は行動を起こし、関中を制圧して秦の累代の王都を手に入れる。項羽の行った論功行賞は甚だ不公平であり、天下の諸侯で満足している者はほとんどいなかった。やがて斉や趙なども次々と反乱を起こして項羽は鎮圧に忙殺されることとなり、今こそ好機と見た劉邦は項羽の本拠地である彭城を目指して東進を始めた。反乱者が出た土地は女子供まで残らず虐殺するという項羽の行き過ぎた所業はそこここで反感を買っており、漢軍の到来を待ち望む声は多く劉邦はさほどの苦もなくその勢力を拡大していった。やがて洛陽に入城した劉邦が正式に項羽の討伐を宣言すると、天下の諸侯は群がるように参集し、反楚同盟軍は実に五十六万もの巨軍に膨れ上がった。折しも項羽は各地の反乱の鎮圧にかかりきりになっている最中であり、巨軍が雪崩れ込むや空き家同然の彭城は呆気無く陥落した。


 しかし、項羽は彭城陥落の報を聞くと直ちに全軍から三万の兵を掻き集め、自ら直率して彭城へと駆け戻った。狂憤を発した項羽の怒気が憑ったかのような楚軍の軍威に慄いた同盟軍の面々はたちまち恐慌に陥り、一人として踏みとどまることなく彭城から逃げ散った。劉邦も辛うじて難を逃れるものの、五十万を超える大軍勢はわずか三万の楚軍に潰乱させられてしまった(彭城の戦い)。どうにか体制を立て直した劉邦は迫り来る項羽と対峙するものの、とはいえ剽悍さでは無類の項羽と戦下手の劉邦ではもとより勝負にならない。諸侯たちも項羽を恐れて一転して楚軍に靡いてしまい、漢軍が劣勢を挽回することは極めて困難であった。漢軍は中原中央を転戦して戦うものの楚軍の猛威を振り払うことはできず(滎陽の戦い)、劉邦はやむなく黄河の北岸へと落ちのびる。



 北方で遊撃部隊として展開していた武将・韓信を督促して諸国の平定を急がせ、今一度体勢を整えると劉邦は再度黄河を渡って南下した。いくつかの城を落として局所的な勝利をおさめるものの、劉邦の南下を知った項羽は再び軍を率いて劉邦のもとへ殺到した。漢軍の士卒は大潰乱の悪夢を思い出して震え上がるものの、しかし窮迫した事態は劉邦に天啓を与え、一帯の食料を賄う巨大穀倉庫である広武山を要塞化して立て籠もるという奇想天外な策を閃かせる。劉邦にとって一世一代ともいえるこの妙策は当たり、楚軍は山を包囲しながらも次第に飢え始め、広武山の対陣は籠城側が飽食して攻囲側が飢えに苦しむという奇妙な籠城戦となった。しかし劉邦が負傷したことによって漢軍も優位を保つことができなくなり、楚漢で天下を二分することを条件に劉邦は講和を申し出、項羽もこれを受け入れる。


 和睦は成った。広武山における一年余の睨み合いの末、楚漢両軍は共に軍を引くことと決まった。楚軍は彭城への帰途につくものの、とはいえ項羽はしばし兵を休ませた後に再び軍を起こし、次こそは漢軍を木っ端微塵に討ち砕く腹づもりでいた。そのような項羽の魂胆を察した劉邦の謀臣達は、劉邦に楚軍を追撃すべきと献言する。長い滞陣を経て楚の兵達は飢え、軍中には不満が渦巻いて脱走者も出ている。また、韓信の活躍によって北方諸国は次々と平定され、劉邦が各地に展開させた小部隊も勢力を拡大させており、粗漏でありながらも楚軍に対する包囲網が整いつつある。劉邦が弱者故に打った数々の布石が、ここに来て芽を吹き始めていたのだった。楚軍が英気を養った後に再び攻めてこられては到底勝ち目はなく、項羽を滅ぼす絶好の機会は今この時を逃しては二度と巡ってこないと献言された劉邦は決断を下し、全軍に追撃戦を命じる。


 約定破りに憤慨した項羽はこれを迎え撃ち漢軍の襲撃を撥ねつけるものの、しかし楚軍はなおも強悍さを失わないように見えてその内情は疲弊の極みに達していた。兵の脱走は後を絶たずに将の間にまで漢軍に寝返る者が現れ始め、戦いが長引くにつれてかつて満天下に並ぶもののなかったその軍容はみるみるうちに縮小していった。やがて華北の韓信らの軍勢が南下して項羽の本拠たる彭城を取り囲み、これを契機に日和見を決め込む諸侯も次々と漢軍に恭順し、楚軍は天下に寄る辺のない孤軍となった。追い詰められた項羽は南部の垓下に野戦築城し、急ごしらえの城に籠って籠城を始める(垓下の戦い)。項羽は折にふれて兵を出すものの、「大軍に兵法無し」の言葉通り圧倒的な軍勢を持って城を包囲する漢軍には到底太刀打ちができない。さすがの項羽も自身が生死の境に立たされことを自覚するが、とある夜、寝所で伏していると何処ともしれずに楚の歌が聞こえてきた。城外から聞こえる故郷の歌は、漢軍に寝返った楚軍の兵たちが唱じるものであった。城の四面がことごとく楚歌で囲まれていることを知った項羽はついに己の運命が極まったことを悟る。


 楚歌を聞いた項羽は城中の士卒を集めて酒宴を開き、これまでの労をねぎらった後、小軍勢を率いて決死の逃避行に出た。江南を目指して一心に馬を走らせるものの、もとより逃げきれると考えていたわけではない。ほどなく劉邦が送った追跡部隊に包囲され、いよいよ最期の時が訪れたことを知った項羽は漢兵の群れに身を投じ、自らの武を示せるだけ示した後に自刃した。我が身の没落はあくまで天の為すところであって決して武勇の弱さによるものではない。全身全霊でそう示した後、稀代の猛者は己が手で己が首を刎ねて果てた。莫大な懸賞金の掛かったその遺骸は漢兵がむらがって五分され、肉片を持ち帰った者達を劉邦はことごとく諸侯として列した。


 

 <項羽と劉邦の物語はこれにて終焉>

 紀元前200年ごろ、二人の名将が全く違うやり方で天下を争った。それが項羽と劉邦である。項羽は豪傑で剛の人といわれ、劉邦は寛大な心で優秀な部下をうまく使う柔の人と言われる。どっちにしても、戦国時代を生き抜くには必要な力だと思うが、項羽はあまりにも強すぎた。そしてあまりにも若すぎた。

•   古来中国では負けたものが悪というイメージがあるようだが、項羽はまさに悪のイメージがある。

 しかし、彼が当時、やったことは当時にしてみれば致し方なかったこともあるのではなかろうか。

 項羽にはいくつかの罪があり、劉邦はそれらを非として戦いを挑んだ。項羽の罪と言われる主な

 ものをあげると、以下のものである。
  ①投降した秦兵20万人を虐殺した。それに限らず、投降した武将や兵はことごとく虐殺した。
  ②秦が築いた咸陽宮、阿房宮という重要な建築物を焼き払い、秦始皇帝陵墓を暴いた。
  ③秦打倒の旗印として義帝(懐王)を立てたが、自分が天下を取ると暗殺した。
  しかし、これらは戦国時代の当事の状況を考えると、十分に理解できることと私は考えている。

 当事の常識として、投降してきた将軍はかならず斬罪とされていた。秦兵20万人の虐殺も、

 謀反の疑惑が持ち上がったために、やられる前にやったということだ。当時の状況としては、

 理解できるものである。
  また、②についても、秦に対する憎しみがあまりにも強くてやったことだろう。秦の暴政は
住民を

 苦しめ、項羽はそのやり方に腹を立て旗揚げしたのだ。確かに世界最大の木造建築物の阿房宮

 が失われたのは惜しいことであるものの、秦への許し難い感情がそこまでやらせたのだろう。
  ③についても、平民に落ちていた懐王(楚王)の孫である「心(しん)」を、再度、楚王として
担ぎ

 上げ、楚王にしたのは諸侯に説明するには当然である。しかし、懐王は彭城にいたままで、強大な

 秦軍を撃破したのは項羽だ。項羽は命を賭けて秦を倒したのであり、天下が平定されれば、自分

 が王になろうと思うのは当然である。
  では、何故、圧倒的武力を持ちながら、項羽は負けたのだろうか?それは「おごり」であると

 整理する。項羽は強いからこそおごりがあった。いつでも劉邦に勝てると思っていた。誰よりも強く、

 自分が一番になるものだと思っていたのだ。よって、人の意見は聞かなかったという。

 それでは部下はついてこないだろう。実際、亜父(あほ:実の父と同様の待遇)とまで慕った

 范増ですら項羽のもとから去った。そして、垓下の戦いのときには、項羽の強さに惹かれた数名の

 武将しか残っていなかった。そのうえ、やり方の残虐さから、民心をつかむことができなかった

 ことが、衰退を早めた原因であろう。これは、曹操軍を散々蹴散らしたものの、そのおごりによって

 孫権に殺されてしまった、三国時代の関羽にも似ている。
  一方、劉邦は楽であった。なぜなら、項羽の逆をやればいいのである。項羽は自ら敵軍の

 なかに突進し、強すぎて誰もそれを止めることができない。あっちで謀反があればあっちへ行き、

 こっちで反乱が起きればこっちへ行く、というやり方だ。そして、捕虜にした後は、ほとんどの者を

 殺していった。しかし、劉邦は、蕭何、張良、韓信の三傑を始めとする名武将で脇を固めたため、

 自分が先頭にたたなくてもよく、また、占領していった地の住民を味方に付けることをやって

 いった。そのやり方が、その後400年も続く漢王朝を築ける源になったのだろう。
  最後に、項羽と劉邦の年齢差について記載する。有名な「鴻門の会」は紀元前206年のできごとで

 あるが、そのとき劉邦50歳、項羽26歳である。そこでは、自分の子供ぐらい年齢差がある項羽に

 対して、劉邦はよく耐えた。項羽に対して「臣」とへりくだり、下座に座らされても耐えに耐えた。

 そこでの我慢の結果、漢王朝の創始者となれたのだ。項羽は義を重んじるところがあり、ここで

 劉邦を殺めるのは男として不義と感じ、また、おごりもあったのだろう。いつでも劉邦は倒せる、と。

 何度も暗殺をほのめかした范増だが、事がならず劉邦に逃げられた。鴻門の会の後、范増は

 「青二才とは天下の大計は論じられぬ」と天を仰いだ。その時、范増は70歳を超えている。項羽が

 亜父とまで慕い、項羽に軍師として仕えた范増までもが、項羽をそう評価するのであるから、自ずと

 勝敗は見えている。やはり項羽は「若気の至り」の部分が垣間見え、そして、劉邦に敗れ去った。

 結局、劉邦に敗れて烏江で自らの命を絶つのであるが、そのときまだ31歳。天下の覇者としては、

 若すぎる、そして惜しい。ただ、20歳代後半であのような活躍をし、波乱万丈の生涯を送り、勇猛

 果敢な生き様は、私の心を魅了するに十分であった。



       おわり