『孫子の兵法』記述の七百年後、千年に1人の天才軍師 諸葛亮孔明は誕生した。 |  今中基のブログ


 諸葛亮孔明(AC181-234年)字は孔明、号は竜、漢族、徐州琅人(現在の山東省臨沂市)三国時代蜀漢の丞相を務め三国志に燦然とその名を遺す。一方傑出した政治家、軍事家だけでなく散文家、書家、発明家でもある。
丞相、軍事家として有名な歴史人だが、書家・散文家として代表的作品は《出師表》、《勧告する子書》などを遺している。またあまり知られていないが発明家としても〝機械仕掛けの運搬用具”や“孔明灯“なども孔明の手によるものである。そして “大弓を改造し1大弓10矢を同時に発する諸葛連弩という武器も考案している。
諸葛孔明の一生“献身的に力を尽くして、死ぬまで頑張る”、中国の伝統の文化のなか忠臣と智者の代表的人物としても有名。
千年にひとりといわれる天才軍師にして政治家、諸葛孔明が生まれたのは、AC200年頃、今から約1800年も前のことです。
 その約400年前(BC200年頃)に劉邦が開いた漢という王朝がありました。この漢は長く続いたため、朝廷は腐敗して内乱が起こり、一時、新という国がたちましたが、すぐに劉邦の血筋の光武帝が起って、ふたたび漢帝国を再建しました。同じ漢の国ですが、後の人は劉邦の開いた漢を前漢、光武帝の開いた漢を後漢と呼んで区別しています。その後漢が百五十年も続くと、またもや皇帝の外戚や朝廷の役人が、自分の出世や栄華のみを追うようになりました。西暦168年、当時十八歳の若い霊帝が即位すると、事態はますます悪いほうに進みます。
 当時の皇帝はすでに名前だけの存在になっており、実権は帝の外戚(妃の兄弟など)や後宮に仕える宦官が握っていました。霊帝は実権もなければお金も持っていません。そこで考えたのが、官位を売ることでした。そもそも官位というのは、優秀な役人が登用されて、実績をあげて昇進するものです。それを、実績もなにもなしに金額を積みさえすれば、役職に付けるようにしたのです。 人々は金儲けに走り、官位を買おうとし、地方の役人は領民から重税を取り、殺してでも金を奪うようになります。人々は苦しみ国中に乱が起こりますが、それを機に地方の英雄達が軍事力を持って天下を狙うようになりました。いわゆる群雄割拠の時代です。
 この時代に諸葛孔明は生れました。『孫子の兵法』はその七百余年も前に記されています。同じ山東省の地のことです、孔明はこの兵法を熟知し活用していたに違いありません。




 その頃、劉備は人を介して司馬徽と面会するが孔明のことを聞き、訊ねた:“儒生俗っぽいこの地でどうして時代の情勢を知っているのか”と。
それから司馬徽から自然なかたちで竜(諸葛孔明)の非凡な才能を知った、劉備は何とか会うことを望みました。
 “三顧の礼をとる”
劉備は自ら出向き孔明を訪問します。その隠れ家を訪ねたとき、劉備は四十六歳、諸葛亮は二十歳も年下の二十六歳だったのです。最初と二度目の訪問は、諸葛亮が外出していて会えず。三度目の訪問でやっと会えました。これのとき劉備は礼を尽して孔明を迎えますが、これが有名な「三顧の礼」です。


 劉備は孔明に出会った後、他の人をよけて言います。『私は漢皇室の末裔の一人ですが、 “漢室は傾き崩れていて、奸臣はバラバラ、天子さまは難を避けるため都を離れています。私は身の程を知らないで、天下に大義をうち樹てるべく努力をしていますが、権謀術数など浅くて短くて力不足で事を成すことができません。志(こころざし)は持てど成す術を知りません、どうか私のもとでいろいろ教えていただきたい、力になっていただけないでしょうかお願いします”。』 孔明は劉備の礼を尽くした招聘に快く応じ、漢の志士として劉備に仕えることになります。

劉備玄徳、諸葛孔明を軍師に迎える
 劉備は孔明に訊ねます。“今の我が漢の兵力では容易には生き残れない、秘策や如何”?
孔明は応えます  『戦わずして勝つ』 われに“天下(てんか)三分(さんぶん)の計”あり、と
いまの漢(劉備玄徳)の兵力なら 先ずは戦うことを避けて、自力をつけるための戦略を助言します。

それが“天下(てんか)三分(さんぶん)の計”です。
 孔明の策は:『天下を目指すなら北は曹操に譲り南は孫権に譲りその後,蜀を取って天下を3分します。』『これは漢帝国13州の地図です。』その地図を指しながら・・・。『殿にはまだ十分な力が備わっていません。このまま曹操と戦ったのでは敗れます。いま彼に対抗できるものはいません。』
『また、孫権は江東を三代にわたって治めております。これは味方にするべきで敵にまわしてはいけません。』
『殿が天下の覇道を目指すには 先ず北は曹操にゆずり、南は孫権にゆずり彼孫権と同盟を結びます。 その上で殿は先ず荊州を取って足がかりとし、その後 益州の蜀を取り天下を三分します。』
『今直ぐではなくチャンスを待って軍勢を打ち出せば曹操を破ることができるでしょう。』 『そうなれば孫権はおのずから殿に降り、天下はわが殿 劉備玄徳のものとなるでしょう。』
『この天下三分の計によって 漢皇室復興の夢もかなえられるのです。』
孔明はこの天下3分の計を述べて、曹操と孫権への対応策と同時に、蜀の益2州中原を攻撃する戦略を述べました。


 劉備はこれを聞いた後、素晴らしい作戦である、ぜひ諸葛孔明にも幕僚としての出馬を乞いこの天下3分の計の実行に着手した。これらをもとに劉備はよく孔明と合議し、両者の関係は日に日に親密なっていった。  
 一方 関羽、張飛は態度には出さないがあまり愉快ではない、劉備は彼らにこう釈明する:“朕と孔明の仲は、まるで魚と水との間柄である。君たちとは兄弟ではないか、心配は無用だよ”と。これにより関羽、張飛はもう不平をこぼさなくなり、劉備玄徳・関羽・張飛に軍師としての諸葛孔明が加わり漢の力は本物となった。
赤壁の戦い 註)赤壁之戰は中国後漢末期の208年、長江の赤壁(現在の湖北省)において曹操軍と劉備・孫権連合軍の戦い。80万とも100万とも言われる曹操の大軍を相手に 僅か数万でしかない孫権・劉備の軍が孔明の戦術火計で曹操の大軍を破り奇跡の大勝利を収めた。
『三国志演義』における赤壁の戦いには創作も含まれているが、史実に基づいているので、孔明が指揮する劉邦(漢軍)の戦い方がよくわかる。以下は『三国志演義』からのピックアップ記述である。
 AC208年、華北を制した曹操が江南を平らげようと7月に50万の兵を率いて南下を開始した。ちょうどそのころ劉表(劉備側・荊州の主)が亡くなり、劉琮と後見人に付いた蔡瑁は、曹操に降伏してしまう。曹操は荊州の兵を合わせ100万と豪語した。
劉備は諸葛亮の進言を容れず荊州を奪う事を諦め、曹操軍に追われながらひたすら南に逃げるが、大量の領民を引き連れていたため進軍速度が上がらず、長坂坡で追いつかれてしまう。この危機を趙雲と張飛の活躍で逃れ(長坂の戦い)、夏口の劉琦の下へ落ち延びる。


 一方、江東に勢力を伸ばしていた孫権はこの報に驚き、文官武官を集めて降伏するか戦うかの会議を始めた。文官のほとんどは降伏を主張していたが、そのころ劉備の軍師だった諸葛亮が訪問し、魯粛も主戦論に偏っていたためにこれを利用し、孫権の説得を始める。兄孫策の義兄弟でもある周瑜も後からやってきて主戦論を主張したために孫権は降伏派を一蹴し戦うことを決める。このとき孫権は自分の机を刀で切りつけ、「これより降伏を口にした者は、この机と同じ運命になると思え」と言い放ち、開戦を宣言する。当初、周瑜は曹操に降伏する考えであったが、諸葛亮から曹操が「二喬」(自分と義兄弟の孫策の妻である姉妹)を欲しがっていると聞かされ、更にその望みを謳った曹操の子曹植の詩「銅雀台賦」を諸葛亮が諳んずるに及び激怒、孫権に対し主戦論を主張し、決戦を決意させた。



 両軍は、長江に沿う赤壁で対峙した。周瑜は大軍を有する曹操を相手にするには火計しかないと判断し、周瑜は計略を使い、荊州水軍の要である蔡瑁を謀殺する。蔡瑁謀殺後に曹操の策によって偽りの降伏をしてきた蔡瑁の甥の蔡中・蔡和に対して偽情報を曹操軍に流させるなど大いに利用した。


 周瑜は諸葛亮にわざと難題を与えて処断させることを企図して「10万本の矢を集めて欲しい」と依頼を出す。しかし、諸葛亮は自ら3日と期日を決めて快諾。夜霧に乗じて船を出し、曹操軍から10万本の矢を船に射掛けさせて矢を回収した。


 そして、苦肉の計を用いて、黄蓋に偽の降伏を申し出させ曹操軍内に下らせた。また、火計を効果的にするために、当時まだ野にいた龐統を使い、曹操に対して船上ですぐに酔ってしまう兵士達のためにと船同士を鎖でつなげる「連環の計」を進言し実行した。問題は、当時の季節の10月には東南の風が吹かないと言う事だった。この方向に風が吹かないと、火計を用いた場合自分達の水軍にも被害が下る恐れがあったのである。諸葛亮は東南の風を吹かせると言い、祭壇を作り祈祷すると、どこからか東南の風が吹く。

 機は熟したとばかりに黄蓋が藁を積んだ船に火をつけさせ火計を実行、「連環の計」で互いの切り離しが間に合わない曹操軍の船は次々と炎上する。更に東南の風で地上に配していた陣にも火が燃え広がり、曹操軍は散々に打ち破られた。
一方、劉備軍は諸葛亮の指示の下、曹操の退却先に伏兵を置き、舞い込んできた曹操と残った軍に追い討ちをかけた。しかし諸葛亮は「今曹操は天命がつきておらず、殺す事は不可能であるし、殺しても今度は呉が強大になって対抗できなくなるだろう」と判断し、曹操に恩がある関羽をわざと伏兵に置き、あえて関羽が曹操に対し恩を返す機会として与え、関羽が曹操を逃がすのを黙認した。としている。
 こうして曹操は荊州の大半を手放さざるを得なかった。以後も劉備と曹操の係争は続きます。