政治(まつりごと)を行うには民を脅さず、信頼を得てこそ普及する。商鞅の『立木取信』はその象徴。 |  今中基のブログ

戦国時代(趙 燕 斉 楚 魏 韓 秦 乱立の時代)西方にあった秦の王 孝公(在位,BC361‐BC338)は衛から亡命してきた商鞅を登用し,法治主義の政治体制を整え,農民を再編成し,軍功による爵位の制度を設け,地方の行政組織として県を置き,官吏を派遣して治めるなどの改革を実行しました。


<商鞅変法>
もともと商鞅は衛国公室の血を引く庶公子で形名の学(実証的法治)を学び、その後魏国宰相に仕え宰相が没したので 秦国の王孝公が出した才ある人を求める「招賢の令」を聞いて秦国へ行きます。
 商鞅は王孝公にまず「帝道」を説き次に「王道」を説き最後に「覇道」を説き孝公の心を捉え一日をかけて富国強兵の方法を講釈し商鞅が考えた富国強兵策を実施するためには旧法を変え(これが変法の第一段階)制度と機構を改革する必要があることを王に納得させます。
しかし変法をしようとすれば旧法に馴染んだ人達は途惑い、政治の場に以前から居た人達は法が変われば自分達に都合がいいように政治を動かすのは難しくなるかもしれません、それに新参者に王の信任を奪われるのも癪です。
商鞅はその古くからの旧法にしがみつく人達の反対論を論破します。


この政策はいちおう成功し、隣国の魏と戦って勝ち西方の後進国の秦を一躍強国にします。その功績によって商の地に封ぜられ商君と号し商の姓を名乗ります。やがて、その強制的改革は貴族層の強い恨みを買い、孝公の死後車裂(くるまざき)の刑に処せられることになります。しかし商鞅のつくった新しい法の精神は以後も受け継がれ、秦の全国統一達成の基礎になったのです。
このことについては『商子』(商君書)に著れ伝えられていますが、多くの篇(へん)は後の法家の手によって付け加えられたのかも知れません。
民の信頼を得るために<商鞅の立木取信>
商鞅は政治(まつりごと)を行う・政策・政令を確実に実行するにあたっては、ただ武力で脅かし無理やり従わせるのではなく、民衆の信頼を得てこそ着実に遂行できるのだと考えました。
 商鞅の変法が実施されたときの話。「改革の法令を全国に発布するに先立って、都の市場の南門に三丈の高さの木が立てられ、そのそばに、この木を北門まで運んだ者には十金の賞金を与える、との立札が掲げられた。人々はいぶかしく思うだけで、何の事かさっぱり訳が分からず、誰も運ぼうとする者はいません。やがて、「十金」は「五十金」と書き改められました。一人の男が現れ、北門まで運んだところ、本当に五十金が与えられました。その上で直ちに法令が全国に発布されました。政府は嘘をつきません、国民は突飛な法令と思うかもしれないが政府は本気で施行いたします。と言うわけです。
 また商鞅は、秦王の太子が法令に違反すると「法令が徹底しないのは、上に立つ者が犯すからだ」と立腹し、さすがに太子を罰することが出来なかったので、その補導係を死刑にしました。こうして法令の力によって秦は国が治まります。


 しかし時は移り、孝公が亡くなりその太子が即位して恵王となると、商鞅は反逆罪に問われた。商鞅は都から逃亡し、関所の宿で一宿を請うたところ、宿の主人は「商鞅様の掟では、通行手形を持っていない人間を泊めると罰せられるので・・・。」と断られます。「商鞅は天を仰いで慨嘆、ああ法令の害毒とは何とここまで酷いのか。やがて商鞅は捕らえられ車裂(くるまざき)の刑を受けます。


 中国の歴史を顧みるとき、私たちは秦始皇帝の天下統一から、総てが始まったと考えますが、じつは100年も前からその基礎というか、雛形とも言えるものがあり、始皇帝の天下統一で全国的にそれらが広まったと考えるほうが頷けるのではないかと思います。そこで、この商鞅(秦の老公時代BC343年)から秦始皇帝そして項羽と劉邦(前漢 BC195年)までの約150年関を下表にまとめてみました。


商鞅(秦の老公時代BC343年)・秦始皇帝・項羽と劉邦(BC195年)まで




 商鞅は戦国時代(趙 燕 斉 楚 魏 韓 秦7ヵ国)時代に秦の王 孝公(在位,BC361‐BC338)に登用され法治主義の政治体制を整え,農民を再編成し,軍功による爵位の制度を設け,地方の行政組織として県を置き,官吏を派遣して治めるなどの改革を実行。<商鞅変法>によって1世紀以上の法政治の元祖とも言える商鞅の変法をあらためて下記に見直しました。


<商鞅変法>
 新法の必要性を教え込まれていた王孝公の決断が下されて「変法の令」が発布されます。これは正しくは「墾草の令」と呼ばれる二十条からなる法で各条令文の末尾に「則ち草は墾かれるなり(ひらかれるなり)」で結ばれる事からきており(草とはここでは荒地をさし、荒地を開墾しようという意味になります)
徹底した軽商重農を基本とした法律です。
 いくつかを抜粋すると・・
役所に持ちこまれた民の嘆願書や申請書はその日のうちに処理する事
納税は粟の物納で税率も統一する事。
酒や肉の売値を高くし(酒は原価の十倍)人が顔が赤くなるほど酔いつぶれる事のないようにする。
関所や市場の賦を重くして商人として暮らす事に嫌気を起こさせ帰農させる。・・などなど。

 この法令は今迄とあまりにも異なる法だったので農耕奨励策がすぐに理解されず、戸惑った農民からも反対されますが、その数年後にはこの法を発布した商鞅は人々から崇められることになります。
 この富国策の次の強兵策として禄や官爵を得て富貴になるには戦功を立てる以外の方法が無いようにして戦功が無ければ宗室でも爵位を剥奪しました。
 尊卑爵秩の等級によって与えられる田地や邸宅の大きさ・奴婢の数・着られる衣服が決められました。いわゆる実力主義ですね。
 これによって世間で一人前に扱われるには戦功を立てるしかないという事と今まで何でもない立場の人でも富貴になれる可能性を与えます。
 秦兵たちは血に飢えた狼のように敵陣に突進するようになり、兵士の家族は「敵の首を取れ!取らなければ帰ってくるな!」と送り出したそうです。
(戦功は敵の首一つで爵一級を上げるというもので「首級」という言葉のもとになりました。)それと信賞必罰(特に身分の高さに関わらず罪があれば罰するようにした)と連坐の令により法を守らなければ家族や仲間すら罰せられるので法から逃げる事もできなくしたのです。


 後日商鞅は孝公が死ぬと彼を憎む人々から濡れ衣を着せられ処刑されますが彼のつくった新法が残っていた事で富国強兵策が維持され始皇帝となる秦王政が登場して中国は統一される事になります。


秦の孝公と始皇帝
 戦国の七雄の1国である秦は、【前4世紀】の【孝公】の時代から強大化しました。秦王孝公を補佐したのは【法家】の思想家である【商鞅】でした。彼は非常に厳格な法治主義者として有名です。孝公は秦国内を36郡に分ける【郡県制】を実施し、秦が強大になるための基礎を築きました。
 その後、【BC221】年に秦王【政】が歴史上初めて中国を統一しました。彼は宇宙の支配者という意味の【皇帝】という称号を創設し、したがって今までの王という称号は単に中国の1地域の支配者が用いる称号になりました。
 始皇帝の最大の政治課題は中国の統一を維持する点にありました。そのために彼は生涯にわたって中国各地を移動して、支配者として君臨する自分の姿を人々に見せて回ったのです。もちろん、【郡県制】を中国全土に施行して中央集権体制の確立を急ぎました。また、諸子百家といわれるような多様な思想に対する弾圧を加え、【法家】の思想を国家の中心にすえました。とくに前213年と前212年に行なった【焚書坑儒】の事件は有名です。この事件を始皇帝に提案したのは法家の【李斯】でした。本ブログ2017-03-15稿を参照ください。焚書から除外された書物は【医学書と農業書】ですが、【儒学者】たちは数百人殺害されています。 
 始皇帝は経済に関する統制も強化しました。各国で鋳造されていた青銅貨幣は秦の【半両銭】に統一。【度量衡・車軌】、【文字】の統一などの政策は孝公時代の商鞅がその基礎をつくったと言ってもよいでしょう。
それらの政府の政策を民衆に信頼させるために行った施策の象徴が、
所謂=『立木取信』…『立木為信』ともいう=四字熟語なのです。

お時間があれば当ブログの2017-03-08《真秦始皇》2017-03-15《秦の宰相李斯》2017-03-22《項羽・四面楚歌》2017-03-29《股くぐり韓信》の再読をお薦めします。