今中基のブログ

 瓦口関に構えて一息ついていた張郃は、幾度かの敵襲も、堅固な関の救いに小揺るぎもなく、事なくすんだが、さて援軍が来なければ、此処から一歩も動きがとれない。ひたすら援軍を待つばかりであった。
 しかし、待てど、暮せど、友軍の来そうな気配が見えない。
 日の経つにつれて、追々と心細くなってくるのを、どうすることもできない。物見を四方に立て、一刻も早く援軍来るの報を得ようと焦《あせ》っている矢先。
  「只今、関の正面に軍馬らしきもの近づいて参りました」と、物見の報告である。
  「何、友軍か?」
  「しかとは分りませんが、魏延の兵とおぼえます」
  「何っ!」
 張郃は顔色を変えたが、魏延の軍、いかに攻めようとも、また過日の悔いを再び味わうのみ、と努めて平然と、
 「敵であれば、厳重に関を固めよ、そして、一部の兵はわれとともに来れ、堅塁を盾《たて》に、なおも一撃を加えてくれよう」
 と、魏延の兵と一戦を交えようと、みずからも関を下って攻めかえそうとした。
 その時、瓦口関の背後、八方から火の手があがり、たちまち燃えひろがる様子。
 その煙の中を使者が駆け来って張郃に報告するには、
  「いずこの兵か分りませんが、火を放ち背後から攻めてきて、関の兵は残念ながら乱れたっております」
 張郃は馬首をかえして、瓦口関に戻り、敵はと見れば、旗をすすめて馬上にあるは、まぎれもない張飛の姿である。
 彼は色を失った。 闘志はとうになくなっている。逃げることだけが彼のすべてであった。
 関の横を通じている小路をめがけ、馬を走らせたが、歩いて通るのもやっとの道であり、岩石が多く、馬は蹄を痛め、脚をすべらせ、思うようには動けない。もどかしくも鞭をあげて逃げる。
 そこを逃しはせじと、張飛はひたむきに追いかけてくる。
 これまで、と、馬を乗り捨て、張郃は転ぶように、木の根にすがり、岩にかじりつき、生きた心地もなく、すり傷だらけになって逃げに逃げた。やっと、追手をのがれてあたりを見ると、自分とともに助かったものは、情けなくも十四、五人、すごすごと南鄭《なんてい》にたどりついた時は、われながら、哀れな姿であった。
 曹洪は張郃の敗戦を聞き、火の如く怒って、
  「われ再三、出ることなかれと命じたるに、汝は、勝手に軍令状を書いて、無用なる戦をなし、あまっさえ敗戦あまたたび、貴重なる兵三万を失い、しかもなお汝のみ生きて帰るとは言語道断である。引出して首を刎ね、この罪を謝さしめん」という。

 曹洪の怒りを聞いて、行軍司馬の官にあった太原陽興の出身で郭淮《かくわい》字を伯済《はくせい》と称していた者が曹洪を諫めて、
 「三軍は得やすく、一将は求め難し、と古人のことばにもございます。張郃がこの度の罪は、まことに許しがたいものがありましょうけれど、しかし、魏王が前から愛されていた大将でございます。しばらく一命を助けられ、もう一度、ご寛大な心から、五千余騎を彼に与え、葭萌関《かぼうかん》を攻めさせられたならば、蜀の軍勢は、この重要な関を守り固めるため、ことごとく引返して参るに違いありません。さすれば、漢中はおのずから平安になるでありましょう」
 郭淮の理をつくした言葉に、曹洪の怒りも幾分かやわらいできた様子だ。彼はなおも、
 「もし、この度のご命令もまた失敗するようでありましたならば、その時になってやむを得ぬことでございます。二つの罪によって、彼を誅《ちゅう》すればよろしいでございましょう」
 曹洪はこの言を容れ張郃の一命は特に助けとらし、五千の兵を与えて、蜀の葭萌関の攻撃を命じた。
 郭淮の進言に面目をとどめた張郃は、この一戦にすべての汚名を払拭せんものと、意気も新たに、五千余騎を従えて、葭萌関《かぼうかん》に馬を進めた。
 この関を守るは、蜀の孟達、霍峻《かくしゅん》の両大将であった。
 張郃軍あらためて攻めきたるの報を得て、軍議を開いた。
 霍峻の説は、
 「天然の要害にある葭萌関を、わざわざ出でて戦うは愚である。関を頼んでよく守るが良策と思う」

 であった。孟達はこれに反し、敵の来攻を待つは戦略の下《げ》である、すべからく関を出でて、即決進撃をはばむべしと称して退かなかった。
 いく度かの議は凝らされた結果、ついに孟達の議をとり、蜀兵は葭萌関を出陣して、張郃の軍と戦闘を交えた。孟達もみずから張郃にいどんだが、これはさんざんに敗れてしまった。
 孟達が逃げ戻ってきたのを見て、霍峻は驚き、成都に向って救いの早馬を送った。
 玄徳はこれを聞き、孔明を呼んで、策を議した。
 孔明は全軍の大将を集めて、
 「只今、葭萌関から急使があった。一刻も早く誰か螂中に馳せ、張飛にこの旨を告げ知らせ、張飛の軍を葭萌関に回らせては如何」と口を切った。      
 これに対し、法正が立って、
 「お説ではありますが、私の思いますに、張飛はいま瓦口関に兵をとどめ、螂中をすべて守っています。 螂中はもちろん大切なところです。もし張飛を召しかえされると、必ず何か変事が起るに違いありません。螂中は只今のまま厳しく守らせ、誰かほかの大将をして葭萌関の危機を救援せしめ、張郃を防がるるが良かろうと思います」
 と、説をのべた。孔明はこれを聞いて笑いを浮べ、 張郃は
 「張郃は張飛のため敗れたりといえ魏の名将です。尋常の男ではない。私の思うには、張飛でなくては彼と太刀打ちできるものはありますまい」
 この言葉の終るか終らぬうち、激しく気色ばんだ老将の一人が立ち、声も荒々しく、
 「軍師、貴殿は何ゆえあって人を芥《あくた》の如く軽んじられるのか、我ら、不才とは申せ、命あらば断じて征《ゆ》きて戦い、張郃の首を斬って参る覚悟があります。お言葉、非常に残念です」
 と、一気にいった。
 一座の瞳《め》は、思わず彼に集まった。老将は即ち、黄忠であった。
 孔明は、ゆっくりとうなずき、
 「あなたのお言葉、まことに勇壮です。しかしながら、あなたは年すでに老い、とても張郃の相手にはなりますまい」と、いってのけた。
 黄忠は怒りに燃え、白髪さかしまに立てて、
 「それがし、年老いたりとは申せ、臂力《ひりょく》いまだ衰えは見せぬ。三本の弓一度に引き得べく、身は千斤の力をもっています。どうして老いたりと称してお用いにならぬのですか」
 「いや、貴殿はすでに七十に近いのです。誰が老いていないと申せようか」

 頑とした孔明の返事に、黄忠は業をにやし、つかつかと堂を下って、長刀を手にとり、これを水車の如く右に左に、上に下に、いと鮮やかに振り廻し、つづいて壁に掛けてあった強弓二張をはずし、一息にこれを折って見せた。
 黄忠のこの意気を眺め、覇気をみとめて孔明は、
  「よろしい、では貴殿を救援に差し向けましょう。しかし、必ず副将をつれてゆくことを命じます」
 黄忠はいたく喜び、
  「かたじけなし。厳顔はそれがしと共に、年老いています。共に参って、必ず敵を破り、万一あやまちあれば、老将二名、いのちに未練はありません。白髪の首を奉りましょう」
 と、覚悟のほどを申しのべた。
 終始、孔明と黄忠の論をうかがっていた玄徳は、老将の言葉にいたく満足して、黄忠の進発を許した。 玄徳の英断を意外に思ったのは並いる諸将であった。わけても趙雲たちは面白からず思って、
   「いま張郃は兵を集め、葭萌関を攻めようとしている。まことに危急の時、何を好んでこんな老人を用いられ、子供の火遊び如きをなされますか、葭萌関にもしものことがあれば、蜀中に災いを起し、またもし幸いに張郃を破った場合は、彼らは図にのって、きっと漢中を攻めとるに違いありません。危険なことです。軍師、どうか熟考なさっていただきたい」
 と、縷々《るる》と述べた。孔明の考えは決まっていた。
  「御身たちはみな、この二人の老人を見て軽んじているが、よろしくない。張郃を破って、漢中を取るのをこの二人の思うに任せたらよろしかろう」
 孔明の言を聞いて、いうこともなく、冷笑して退散してしまった。
 黄忠、厳顔の二将は、兵を率いて葭萌関に到着した。これを見た孟達、霍峻は年老いた将の救援軍を大いに笑い、
 「孔明は人を見る明がない。こんな老人は、戦争に出なくとも間もなく死んでしまうものを」
 と、嘲《あざけ》って関守の印を渡した。
 黄忠、厳顔は、二人の旗を山上に立て敵にその名を知らしめた。そして黄忠が密に厳顔にいうには、
 「諸所での噂を聞きましたかな、いずこでも、われら二人の老年を嘲笑しておりますぞ。ひとつ力を合せて、大なる功をあげ、奴らを驚かせてくれよう」
 と、誓いも堅く、兵を揃えて出馬した。
 この状《さま》を見て張郃も馬を出し、黄忠の陣に向って叫んだ。
 「汝、その年まで生をむさぼり、なお恥をも知らず、陣前に出て戦わんとするか、笑止、笑止!」
 黄忠大いに怒り、
  「汝、わが年の老いたるを笑うといえども、手の中の刃は、いまだ年をとらぬ。わが利刃《りじん》を試みてから広言を吐け」と罵り返し、馬をすすめて張郃にあたった。張郃も鎗《やり》をひねって、戦うこと約二十余合、すると突如、張郃勢の背後から、厳顔の兵が小路を迂回して現れ、挟撃したため張郃勢は一度に崩れ、喊《とき》の声に追われながら、遂に八、九十里退却してしまった。

 曹洪は、この度もまた張郃が敗れたと知って、いそぎ罪を糾《ただ》さんと怒ったが、郭淮が、
 「只今罪を問われるならば、張郃はきっと蜀の軍門に下ってしまうでしょう。かくては取り返しのつかぬこととなります。別に大将を派遣され、張郃を助け、ともに敵をふせぐことが上策と考えます」と諫めて、曹洪をして、夏侯惇の甥にあたる夏侯尚に、韓玄《かんげん》の弟の韓浩《かんこう》を副《そ》え、五千余騎を与えて、張郃援助の軍として差向けさせた。
 張郃は、新手の勢を見て大いに喜び、諸将を集めて軍議を開き、
  「黄忠、年老いたりといえども、思慮深く、勇気もあり、その上厳顔も必死に協力しているので、軽々しくは戦えません」
 といえば、韓浩が口を開き、
  「われ長沙にある折、よく黄忠が人となりに接していた。彼は、魏延《ぎえん》と心を合せ、わが兄を殺した憎い奴、今日、ここに会うたは天の御心、必ず仇を報ぜずにはおられません」
 覚悟のほどを眉間にあふれさせた。
 韓浩は、夏侯尚とともに新手の兵を率い、陣を構えて敵を待った。(327話)

                                                                   ― 次週へ続く ―