すでに内裏のほうではただならぬ震動のうちに女官たちの悲鳴がながれていた。土足で後宮を馳けまわる暴兵たちは、口々に、
「皇后《きさき》はどこへ隠れたか」と、罵り罵り捜していた。
伏皇后は、いちはやく、宮女に扶けられて、内裏の朱庫の内へかくれておられた。ここには二重壁があって、壁の中へ身を塗りかくしてしまう仕掛けがしてあった。郗慮《ちりょ》も来て、
「この中が怪しい。尚書令の華欠《かきん》を呼んでこい」
と、協力をうながし、共に朱庫の扉を破って、内部へおどりこんだ。けれどもここにも見えなかった。郗慮は外へ戻ろうとしたが、尚書令はその職掌がらこの構造を知っているので、剣を抜いて壁を切り開いた。たちまち壁は鮮血を噴き、その中から伏皇后には悲鳴をあげて転《まろ》び出られた。
忌《い》むべし、眼をおおうべし。朝廷とか臣道とかの文字はあっても、自ら「道の国」と称しても、ひとたび覇者の自我が振うときはこの国にはこんな非道が平然と行われたのであった。華欠《かきん》は、后《きさき》の黒髪をつかんでひきすえ、后が、
「助けよ」と、呼ばると、華欠は、
「直接、魏公に会って哭《な》け」とばかり取り合わなかった。そして素足のまま引っ立てて、曹操のまえに連れてゆくと、曹操は、はッたと后を睨みつけて、
「われかつて、汝を殺さざるに、かえって、汝われを殺さんと謀る。この結果は、いまに思い知らしてやる」と、いった。そして、武士に命じて、鞭や棒で乱打を加えたから、皇后はもだえ苦しみながら遂に息絶えてしまった。
その悲鳴や曹操の罵る声は、外殿の廊まで聞えてきたほどだった。帝はお髪《ぐし》をつかみ、身を慄わせて、天へ叫び、地へ昏絶された。
「こんなことが、天日の下《もと》に、あってもいいものか、この地上は、人間の世か、獣の世か」
血も吐かんばかりな有様に、希慮は武士の手を借りて、むりやりに帝を抱えまいらせ、秘宮のうちへ閉じこめた。
曹操は、毒に酔える人みたいに、もうどんなことでも平然とやってのけた。伏完の一門から穆順の一族縁類の端まで、総計二百何十人という男女老幼を、この日たった半日のまに残らず捕えて、宮衙門《きゅうがもん》の街辻で、首斬ってしまった。
とき建安十九年十一月の冬、天もかなしむか、曇暗許都の昼を閉じ、枯葉の啾々《しゅうしゅう》と御林に哭《な》いて、幾日も幾日も衙門《がもん》の冷霜は解けなかった。
「陛下。承れば供御《くご》の物も、連日おあがりにならない由ですが、どうかもう宸襟《しんきん》を安んじていただきたい。臣も、なにとてこれ以上、情けのない業《わざ》をしましょう。本来、無情は曹操の好んですることではないのですが、ああいう問題が表面化しては、捨ておくわけには参らないではありませんか」
曹操は、一日、朝へ出て、幽愁そのものの裡に閉じ籠っておられる帝へ奏した。
そしてまた、自身の女《むすめ》を、強いて皇后《きさき》にすすめ参らせた。帝も拒むお力はなく、彼の言に従われて、ついに翌春の正月、晴れて曹操の一女は、宮中に入り、皇后の位に即《つ》いた。当然、それとともに曹操もまた、国舅《こっきゅう》という容易ならぬ身分を加えた。
(――急に、魏公が、あなたと夏侯惇のおふたりに内々密議を諮りたいとのお旨である。すぐ府堂までお越しありたい)
賈詡からこういう手紙が来た。使いをうけたのは、曹操の一族、曹仁である。
「なんだろう?」
曹仁は、洛中の邸から、すぐ内府へ急いだ。
ここの政庁の府でも、曹仁は魏公の一門に連なる身なので、肩で風を切るような態度で、どこの門も、大威張りで通った。すると、曹操のいる中堂の入口まで来ると、
「こらっ、待て」と、何者かに誰何《すいか》された。見ると、許褚が、狛犬《こまいぬ》のように、剣をつかんで、番に立っている。咎《とが》めるのはもちろん彼である。
「なんだ、」
「なんだではない。閣下には、どこへお通りあるつもりか」
「魏公にお目にかかりに来たのだ。わしの顔を知らぬ貴様でもあるまいに、なんで咎めるか」
「魏公にはただ今、お昼寝中である。通ってはならん」
「余人《よじん》なら知らぬこと、わしが通るになんでさしつかえがあろう。お昼寝中でもかまわん」
「いや、いかん」
「何だ。上官に対して。――おれは魏公の肉親だぞ」
「たとい、どれほど親しいお方であろうと、断じて、君のおゆるしを仰がぬうちは、ご身辺へ寄せる
ことは相ならぬ。許褚、身は微賤なりとはいえ、君の内侍《ないじ》を承り、ご身辺の警固を仰せつけ
られて、ここに在るからには、その職権を以て、固く拒む。………魏公がお目ざめ遊ばしたら、内意を
伺って、ご案内する。それまでは外でお控えなさい」
どうしても通さない。頑として曹仁を入れなかった。
やむなく、待っているうちに、ようやく曹操は昼寝から起きたとある。曹仁はやっと通されて、魏公に会うと、
「いや、きょうはひどい目にあった。許褚というやつは、実に頑固な男ですな」
と、ありのまま話した。曹操は聞くと、
「それは、虎侯《ここう》らしい。彼のような男がいればこそ、予も枕を高くして臥すことができる」と、かえって、彼の忠誠を大いに賞めた。
間もなく、夏侯惇も来た。賈詡も顔をだした。
「ほかでもないが」と、曹操は、三名を揃えてから、きょうの用向きを語りだした。
「近ごろ、よくよく考えると、どうも蜀をあのまま放っておくのは、将来の大患だと思う。何とか、いまの内に、玄徳を蜀から切り離す方法はないだろうか」
夏侯惇がすぐ答えた。
「それをなすにはまず問題は、漢中という事になるでしょう。漢中は西蜀の扉のようなものですから」
「大きにそうだが、漢中の状況はどうだ」
「いまならば、一鼓《こ》して打ち破れましょう。漢中には、どこといって、支持する国がほかにありませんから」
「では、西征の大旅団を、至急編制して、まず張魯を討つとするか」
「あそこを取れば蜀の兵は、扉の口を封じられた糧倉の鼠みたいなもので、中で居喰いをつづけていても、その運命は知れたものです」それは賈詡の言だった。
漢中は、まもなく、騒動した。就中《なかんずく》、張魯とその一門は、連日、軍議に追われた。
「――魏の大軍が、三手にわかれて来るとある。一手は夏侯惇、一手は曹仁、一手は夏侯淵と張郃。そして曹操は自身、その中軍にあるという」
「どうして防ぐか」
「まず、漢中第一の嶮要、陽平関を中心に、守るしかあるまい」
張衛を大将に、楊昂、楊任など、続々、漢中から前線へ発した。
陽平関は、その左右の山脈に森林を擁し、長い裾野には、諸所に嶮岨《けんそ》もあり、一望雄大な戦場たるにふさわしかった。
関をへだつこと十五里。すでに魏の西征軍の先鋒は、陣地を構築しはじめていた。
この陽平関の序戦では、魏の先鋒が、大敗を喫した。
敗因は、魏の兵が地勢に暗かったことと、漢中軍がよく奇襲を計って、魏の先鋒を、各所で寸断し、その孤立した軍を捉えては殲滅を加えるという戦法に出たことが、奏功したものと見えた。
「若い若い。汝らの攻撃を見ていると、まだまるで児戯《じぎ》にひとしい」
曹操は自己の中軍へ、前線からなだれ打って逃げてきた先鋒の醜態に怒って、その大将夏侯淵と張郃そして自身、先陣を編制し、許褚と徐晃を従えて、一高地へ上った。
陽平関の敵が見える。曹操は鞭をさして、
「あれが張衛の陣か、程の知れた布陣、何ほどのことがあろう」と、いった。
そのことばと同時に、背後の一山から、驟雨《しゅうう》のように矢が飛んできた。愕《おどろ》いて急に振りかえると、敵の楊昂、楊任、楊平などの旗じるしが、攻め鼓に士気を振って、
「網中の大鵬《おおとり》を逃がすな」と、麓の退路を断ちにかかった。
この日から次の日の戦争にかけて、魏軍はまたしても莫大な兵を損じた。三日目にも挽回がつかず、曹操も苦戦に陥ちて、万死のうち一生を拾って逃げ帰ったほどである。
陣を七十里ほど退いて、対峙すること五十余日、曹操も、容易に抜き難いことをさとったか、
「ひとまず許都へ還って、さらに出直そう」
と、布令《ふれ》た。
一夜のうちに、魏の旌旗《せいき》は、忽然とかき消えた。漢中軍の帷幕では、
「いまこそ退く魏兵を追って、徹底的に殲滅すべし」となす楊昂《ようこう》の説と、
「いやいや、曹操は謀計の多い人物だ。うかとは追えない」
という楊任の説とが対立していたが結局、楊昂は我説を張って、遂に、五寨《さい》の軍馬を挙げて、追撃に出てしまった。 漢中の破滅はこれが重大な一因を成した。せっかくこれまで勝ちつづけていたものを、曹操の計に乗って一ぺんに無にしたものであった。 なぜならば、その日、霧風といって、大陸的な気流の烈しい中に、咫尺《しせき》もわかたぬほど濃霧がたちこめていたのである。(313話)
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