幾日かすると――。
何としたことか、今度は、張郃の陣から、こちらの山に向って、悪罵が飛んできた。
遥かに望めば、魏兵が山上にうち揃い、一せいに大声を発し、悪たれをついているのだ。雷同はこれを眺めて切歯した。
「なかなか憎い致し方、この上は一挙に……」
と、真っ赤になっていきまくのを、張飛は、
「いまこちらが動いては、まんまと敵の術中に陥るというもの、しばらく待て」と、おさえた。
しかし、こんな状態が五十日余りも続いては、部下の兵士も安らかではない。不穏な形勢さえ見えてきたので、張飛は一策を案じてまた山を下って敵前に陣を構えた。そしてそこへ酒を運ばせ部下とともに酒宴を張り、大いに酔っては、山上に向って悪罵すること、前よりもはげしかった。いい気持になって部下どもも、大いに声を張り上げて、張飛に和して罵りつづけた。
だが、張郃はこのさまを見て、
「張飛も遂に自暴《やけ》になったわい。必ず手だしをすな」
と、命じたので、山中はかえって静まりかえってしまった。
成都にあって、軍勢如何《いかん》を案じていた玄徳は、使者を張飛のもとに送り、復命を待った。
やがて、使者のもたらした報告は、
「張飛の軍、螂虫《ろうちゅう》の北方に於て、張郃の兵とぶつかり、双方対陣のまま五十余日に及びますが、張郃いかに謀《はか》れども出でて戦わず、ために張飛は敵を欺くと称し、山を下って敵前に構え、毎日酒を飲んで、敵を罵りおります」というのである。
玄徳は驚いて早速、孔明をよび、張飛が悪い癖をだしている様子であるがどうしたものかと問うた。
委細を聞いて、孔明はカラカラと笑い、
螂中にはおそらく良い酒はありますまい。成都の美酒をあつめ、五十樽《たる》ほどを、車にのせて、早速送り届け、張飛に飲ませたらばよろしかろうと存じまする」と、いった。
「とんでもないこと、大体、張飛は今までも、酒のために色々と失敗をしている。その上、成都の美酒を送れとは、解《げ》せぬことを申すものかな。彼美酒に酔うて、ついには張郃に害《いた》められるに至ろうも知れぬ」と、忿懣《ふんまん》の色を顔にみなぎらせた。
孔明は、またニコリとして、
「あなたは、張飛とはずいぶん長い年月、兄弟のように交わっていられながら、彼の本当の胸のうちをまだご存じないと見えます。張飛が、いつぞや、蜀に入る時に、厳顔《げんがん》をゆるして味方としたことを覚えておいででしょう。その折の計の深さは、とても、ただの勇武だけではできないことでした。いままた、宕渠《とうきょ》の山前で、張郃と対陣し、しかも五十余日に及び、ちか頃は酒を飲んで張郃を罵り、辱 《はずかし》めているということですが、こんな傍若無人ぶりは、彼の本心ではありますまい」
孔明の言葉は、玄徳を見つめたまま、熱をおびていた。
「必ずや、張郃をあざむくための、深慮遠謀あってのことと信じます。ただちに援けられたほうがよろしいと思います」と、一気に云った。
玄徳はうなずいて、名酒五十樽を、ただちに宕渠陣の張飛がもとに届けよ
「そうは思うが、どうも不安でならないのじゃ。言葉にしたがって、魏延を派遣して、援けるとしようぞ」と、孔明の説に動かされた。
孔明は玄徳の命をうけると、魏延を呼びよせて、
「成都の名酒五十樽を早速に調達せよ」と命じた。魏延は何事があるかといぶかりながらも、ただちに集めて、孔明に示せば、孔明は黄色の旗に「陣前公用の美酒」と書きつけ、
「これを三輛の車に立て、ただちに宕渠の陣にある張飛がもとに届けよ、とく行け」と、急がせた。
魏延はかしこまって、酒の輸送にあたった。
沿道の住民は、この異様な車輛に、目をみはって、何のおめでたかと噂し合った。
宕渠の陣に着いた魏延から、この贈物をうけた張飛は、大いに喜んで、その酒樽を拝した。
「わが事、これにて成就疑いなし」
といって、魏延と雷同を呼び、
「魏延は、わが右翼にあれ、また雷同は同じく左翼に陣せよ、軍中紅き旗振るを合図として、その折は、全力をもって討って出よ」
と命じ、陣中に美酒を迎え、肴《さかな》をあつめて、前にもました大酒宴をはじめた。
久しく軍旅にあって、口にしたくもできなかった、成都の銘酒、宴ははずむばかりで、笑声山間に鳴るの感があった。
この様子をつぶさに眺めた張郃に報じた。
「珍しきこともあるかな、どれ」
と、張郃は山上に現れ、遥かに張飛の軍を眺めやれば、張飛は中軍に陣して平坐、痛飲している様子。そして、二人の童子に相撲をとらせては、しきりと喜んでいるのが分った。
対陣も久しきにわたっているし、心もそろそろ安らかでなくなっていた張郃は、
「張飛のやつ、いい気になって、あまりにも小馬鹿にした振舞い、よし、今夜は山を下り、一気に敵陣を蹴散らして、目にもの見せてくれようぞ」と、蒙頭《もうとう》、盪石《とうせき》の二将に戦闘用意を命じ、これを左右とし、月明を利して、山を下り、張飛の軍に迫った。
敵前に近づいてから、なお眺めれば、依然として張飛は酒を飲んでいる。
折もよし、
「突っこめ!」の命とともに二ヵ所の勢、喊《とき》をつくって雪崩《なだ》れ、鼓をうち、銅鑼《どら》を鳴らして、突っ込んで行った。
張郃は馬上にあって、目ざすは張飛、今宵こそはといきまいて迫って行けば、酔いしれてわれを失ったか、目ざす張飛の影は動こうともしない様子、馬を躍らせて手もとにとびこみ、
「やあ!」と、一鎗に突き通した。
しかし、その手応えに、張郃は、はっとしてしまった。たしかに張飛と思ったのは、人に非ず草で作った人形だった。
「しまった」と、あせり気味で後に退こうとすると、突然、鉄砲が響いた。それと同時に、一人の大将を先頭に、一群の兵が道をふさいだ。
先頭の大将は、と見れば、虎鬚《とらひげ》さかさまに立ち、目は百|錬《れん》の鏡に朱《しゅ》をそそいだごとく、その叫ぶ声は雷にも似て一丈八尺の大矛をふり廻し、
「やあ張郃。世にきこえた燕人張飛、ここにまかり出た。勝負ッ」
と云いざま、張郃の驚く鼻先へ切ってかかった。
張郃もとっさにこれをうけ、必死にうち合うこと四、五十合に及んだ。
その間に、雷同、魏延の左右の軍も、それぞれ蒙頭、盪石《とうせき》の二手の勢と闘い、またたく間にこれを追いまくってしまった。味方の崩れを見ながらも張郃はなお鋭い張飛の矛とうち合っていたが、かくするうちに、山上に、火がかかり、蜀の軍勢は勢いを得て、ますます数を増し、彼の周囲はすべて敵となってゆくのが分る。その上、退路も絶たれる様子に、このまま手間取っては、一命も危うしと感じたか、寸隙をねらって、馬に一鞭をあたえて逃げてしまった。
張飛は、この優位逃すべからずと、全軍になおも追撃をゆるめるなと号令して、遮二無二突進した。
張飛の軍勢はすさまじい勢いで進撃した。魏延《ぎえん》、雷同を両翼とした態勢もよかったのだ。逃げ足立った敵を追いまくり、切りふせ、蹴ちらして、凱歌は到るところにあがった。
張郃が自信満々に構えた三ヵ所の陣は、またたく間に打ち破られ、三万余騎の兵力も、遂に二万余人を失って張郃自身、かろうじて瓦口関《がこうかん》(四川省)にまで落ちのびて行った。痛快極まる勝ち戦は、張飛の鬱積を吹きとばして、なおあまりがあった。早速に早馬を仕立てさせ、使者を成都の玄徳に送った。
玄徳の喜悦もまたひとしおで、
「孔明の明や深遠、清澄。螂虫の勝報、わが想外にあり。善《よ》い哉《かな》、善い哉」と、膝をうった。(325話)
―次週へ続く―



