記者と倫理 | セセデブログ

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たとえば、誰かの話に感動して

泣いている人がいるとする。

その事実を報道しなくてはいけない場合、

その泣き顔を撮影することは記者の「職務」だ。


しかし、実際にそのシーンが訪れた時、


「僕はこの人の感動を、『商品』として見ているのではないか?」

「カメラを意識して、その感動にウソが混じってしまう可能性は?」


そんな思いが頭をよぎり、

僕はシャッターを押すことをためらった

(そしてシャッターチャンスを逃した)。


だが、職務である以上、

それは全うすべきである。

ならば、気持ちよく仕事するためにも、

僕はこれを納得して行いたい。

この行為を正当化したい。


早速やってみる。


まず、「商品として見ている」というのは、

よくよく考えれば、

別に「泣き顔」だけに当てはまることではない。

ただ話を聞く姿も、討論する姿も、サッカーをする姿も、

「商品として見ている」という点では変わらない。

言ってしまえば、

世界の「すべての事実」を

記者は「商品」として見ているということだ。

だから、この理由で「泣き顔」の撮影時だけ

倫理に反すると考えるのはおかしい。

また、記者という職業の特性上、

すべての事実を「商品の素材」として見てしまうことは

避けられない。


次に、「感動を邪魔してしまう」という

理由はどうだろうか。

これも、他の撮影時との差異はないと考えられる。

涙が出ていなくてもすごく感動しているかもしれないし、

撮影することで何かしらの影響を与えるというのは、

いつ、誰でも同じだ。


こう考えると、自分は一体何をためらっていたのだろうと思えてきた。


つまるところ、

僕は「泣く」という行為だけを

「勝手に」特別扱いしていたのである。

実際はまったくの等価であるのに、

主観的に何かを特別扱いしていたことが、

上の失敗を生みだしたのだ。


これは、社会でも度々見られる現象ではないだろうか。

たとえば、自国民の人権は守るが、

他国民の人権は簡単に侵す国。

「文明」と「野蛮」という言葉は、

その象徴であろう。

「発展途上国」なんて言葉も、

その一つじゃないだろうか。


自分の思い込みを絶対的な「正義」と考えることは、

行いを間違う危険性を高める。

自身の行動を検証し続けることが肝要だ。






…「正義」について考えを深めたい人は、

サンデル教授の本を読むのも良いけど、

今月末発行される『セセデ』12月号の特集も、

一度読んでみましょう。


『セセデ』12月号

特集「チュチェ的に正義の話をしよう(仮)」。


鋭意作成中。

こうご期待。