「想像力」 | セセデブログ

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ある映画の台詞。


「想像力があれば俺も世の中も、もうちょっとマシになってるはず」。


想像力って一般的に使う言葉だけど、ここで言う「想像力」にはもっと幅広く深い意味が込められている。


ただ単にイメージする力ではなく、すべてのものに対する深い観察力を基にした柔軟な思考があるかどうか。


自分はこの映画の言う「想像力」をそう受け止めている。


例えば、日々の生活の中での自分の身の置き方、態度、投げかける言葉、タイミング、声のトーンなどなど、そのすべてを自分の中で決断する前に、それによって自分がどうなるのか、どんな状況が生まれるのか、周囲にどんな影響を与えうるのかを「想像」できているかということ。こっち側の妄想でもいいから、相手が何を考え、言おうとしているのか、イメージはあるかどうか。


戦争、政治から始まり、一つの会社内での出来事まで、世界のすべての出来事は、人それぞれの「想像力」の高低の違いや、方向性の違いによって生まれていると言えるのでは。


「お前がそんなふうに思ってるなんて知らなかった」。


腹を割って互いに意見や主張を交わしてみると、こんなセリフがよく出てくる。


仲のいい人同士でもけっこうそうなる。


確かに自分から発信する必要はかなり大きいもの。


でも、それと同時に、互いに理解できていない状況で、なぜもっと慎重にできないのかというのも重要な点なのではないだろうか?


相手の気持ちがわからないからこそ言えてしまうっていうのも確かにあるけど、そうなってしまうと、そこには「想像力」が皆無だといえる。


かといって想像しすぎて、躊躇してしまうのではそれもよくない。


しかし、決してネガティブになれという意味の言葉ではない。


不意を突かれた時、どうするのかも「想像力」を働かせる2度目のタイミングだ。


自分には新鮮すぎたり、真逆のものであっても、冷静に「想像」できるかどうか。


「石橋を叩いて、叩いて、叩きまくって渡れ」という意味ではなく、「今自分が渡ろうとしているのは、そもそも石橋なのか」と疑問を持つ観点。


「石橋を叩く」ことができるのは、目の前にあるものが石橋だと確実に理解できた後のはずだから。




なんてことを勝手に考えてみたけど、また一つ「想像」できないことが出てきた。


この映画の監督は、「なぜこの映画を作ったのか」、「なぜあのような形で世に出したのか」だ。


なぜ自分がそう思うのかというと、この映画は邦画なのだが、実はある洋画にそっくりなのだ。


そっくりというか、わかる人が見れば、パクリ映画にしか見えない。


キャラクター構成、ストーリー、BGMなどなど、似ているというか、「そこまでやるか」という意図的にマネしたものが多すぎるのだ。


しかも、パッケージを見ただけではまず気付かないので、実際に見てみてビックリという感じ。


自分もいろんな映画を見てきたし、俗に言う「パクリ映画」も認識しているつもりだが、ここまである意味気持ちよく模倣したものは初めて見た。


むしろパクリのレベルすら超えているので、「リメイク」と言ってしまえばいいのに、と見ているこっちが心配になってしまうくらいだ。


でもまあ、初めて見たのも数年前だし、もう一回見てみようと思う。


まだまだ「想像力」が足らなかったのかな。