もち | セセデブログ

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日本で正月に食べるものと言えば、

もちを思い浮かべる人が多いのでは。


もちは正月に好んで食べられるだけでなく、

神棚に置くなど、

神さまや先祖に捧げるものとしても使われることも多い。

朝鮮でもチェサの時、必ずと言っていいほど準備される。


先日もテレビを見ていたら、そんなシーンを見かけた。

毎年この時期、神棚にもちを置いて、

家内安全を祈っている云々。


「神に捧げるもち」の正確な起源はわからないが、

ずいぶん昔からやっていることだと思う。

少なくても江戸時代からはやっている。

つまり数百年来、同じように繰り返している。


世の中が経済的に発展していく中で、

モノの価値は変わってきた。

例えば、昔は真っ白な米が最高のご馳走だったという。

しかし現在、夕飯が銀シャリだけだったら

目くじらを立てる人の方が多いだろう。

「夕飯が米だけかよ!」と。


モノの価値が変わっていく中で、

当然、もちの価値も変わっていった。

飽食の時代、もちの価値は相対的に下がったに違いない。

江戸時代で1000円ぐらいだったら、

今では100円以下だろう。


このもちの価値に関する考察が正しいとしたら、

昔の人がもちを準備するための苦労は、今の数倍だ。

値段も高いし、コンビニで買うわけにもいかない。


だのに数百年たっても、相変わらず「神棚にはもち」。

これって、どうもおかしくない?


価値が変わったのに、捧げるものが同じとはどういうことか。

昔と今とで、釣り合う価値のモノに変えるべきではないだろうか。

自分が神様だったら、絶対にその方がうれしい。

事実、お賽銭に使う金額は、時代の価値に合わせて変化している。

昔が1銭だったから今も1銭、ではない。


こう考えると、現代、神棚に飾るべきは、

もちではなく、キャビアとか松坂牛ではないだろうか。

それでやっと、先人の「神棚にもち」に近づく。


これはくだらない話ではない。

この話の奥には、

我々の信仰に対する価値の問題が潜んでいる。

現代は神ではなく科学を信仰しているから、

相対的に神の価値が下がるのは当然か。


「もち」ろん、それがいいことかどうかは、

今はわからない。