世界史オタク・水原杏樹のブログ

世界史オタク・水原杏樹のブログ

世界の史跡めぐりの旅行記中心のブログです。…のはずだったんですが、最近は観劇、展覧会などいろいろ。時々語学ネタも…?
現在の所海外旅行記は
2014年9月 フランス・ロワールの古城
2015年3月 旅順・大連
2015年8月 台北(宝塚観劇)
を書いています。

ブルーモスクの近くにあるのがアヤ・ソフィアです。途中にヒュッレム・スルタン・ハマムがあります。ヒュッレムが建てた浴場で、設計はスィナン。長らく閉鎖されていたのが2011年に高級ハマムとしてリニューアルオープンしたそうな。

そしてその先、ブルーモスクとよく似た外観で、少々古びているのがアヤ・ソフィア。元はビザンチン時代のギリシア正教の聖ソフィア大聖堂だったものがオスマン帝国に征服されてモスクに変えられました。ミナレットはその時に追加されたものです。

アヤ・ソフィアの聖堂としての創建はローマ帝国時代のコンスタンティヌス大帝の時代(4世紀)にさかのぼりますが、当時の聖堂は焼失しました。その後再建された聖堂も、西ローマが滅びて東半分の東ローマ帝国時代に焼け落ちました。その時の皇帝はユスティニアヌス帝。ユスティニアヌス帝は地中海沿岸地域を再征服して領土を広げた皇帝ですが、その戦費を賄うために税金を課し、これに反発した民衆が反乱を起こました。これが「ニカの乱」で、この時に聖堂は焼け落ちました。
(「ニカの乱」で有名なエピソードは、宮殿から逃亡しようとしたユスティニアヌス帝に対して、皇后テオドラは

「皇帝の衣装は最高の死装束」

と言って、みじめに逃げるよりも皇帝として死ぬようにさとしたところ、皇帝は思い直して民衆に立ち向かい、乱を平定した…ということです。ちなみにテオドラはもと踊り子でユスティニアヌス帝に見初められ皇后になった人。なかなか肝の座った人ですね)。

で、その後ただちに再建された聖堂が現在の建物です。巨大なドームを驚異的な高さに持ち上げた技術力はどこにもまねのできないもので、その後約1000年に渡って世界最大の建築物として名を馳せることになります。

コンスタンチノープルが陥落した1453年はまだ「世界最大」だったころで、陥落させたメフメト2世はこの聖堂に足を踏み入れた所、この街のあちこちで略奪を行う兵たちがここにも入り込んでいるのを見て「街の建物は余のものである」と一喝して追い払ったとか。
そうしてメフメト2世はこの世界最大の聖堂をモスクに作り替えることでコンスタンチノープルを手に入れた象徴としたのです。イコンは塗りつぶされ、メッカの方向を示すミフラーブが作られ、ドームの根元をめぐるようにコーランの言葉を記した円盤が設置されました。

オスマン帝国が倒されてトルコ共和国が成立すると、アヤ・ソフィアは博物館に作り替えられました。トルコ共和国は政教分離を進めて近代国家への道を歩んできました。しかし2020年に至って再びモスクとする決定が下されました。政教分離に対してなんとな~く反感を持つ層はいたのですが、近年になって政権がイスラム回帰に舵を取り始めているのです。

というわけで、アヤ・ソフィアはモスクに戻ったわけで、1階部分の礼拝所には異教徒は入れなくなりました。他のモスクは柵で仕切って入れてくれるのに。ということで、観光は上部の回廊部分のみです。中に入り、ひたすら階段を上がります。そうしたら広い廊下が開けました。床も大理石、柱も大理石です。中心部に大きなドームを乗せるのは今まで見てきたモスクと同じで、本当にイスタンブールのモスクはアヤ・ソフィアにならって作られているんだなと思います。そしてこの建築形式がトルコ全域にいきわたっているのも、よほど影響が大きい建物だったということでしょう。ネギ坊主を乗せた他の国のモスクとはっきりと違いますから。

しかし、形は似ていても、雰囲気が随分違います。ドームの装飾も、アーチの装飾も、オスマン時代のモスクに踊る華やかな唐草模様とは全く違って、とても重厚な雰囲気です。しかもアーチの上部など模様がハゲていたり、経年劣化を感じます。なのでかなり古めかしい感じがします。漆喰で塗り固められたというイコンは博物館時代にはがされました。なのでモザイクのイコンがあちこちに見られます。

回廊を回ると1階の部分が広く見渡せる場所に来ました。ここから見下ろした正面がキリスト教のの祭壇だった所です。そして少し横にずれてやや斜め向きにアルコーブが設置されています。これがミフラーブです。もともとキリスト教の聖堂だったのが、モスクに作り替えたらミフラーブはどうやって設置したんだろう、メッカの方向と合わせるのはどうしたんだろうと思っていましたが、こんな風になっていたんですね。もとの祭壇の位置とあまり変わらなかったらしい。しかしメッカの方向と少しズレているので向きがずれているだけで。そしてその右手にはちゃんとミンバルもありました。

それにしても大きい。今までのモスクは下から見上げるだけでしたが、上からしか入れないアヤ・ソフィアでは回廊だけでもこれだけ広くて、下を見たらかなり高い位置にあるのがわかりますし、大きさを実感します。
さらに回廊を回ってきますと、博物館時代に漆喰をはがしたときに出てきた天使像が、モスクになって白い布に覆われているのが見えました。狭い通路を入っていきますと、布の隙間から天使や聖母子のイコンが見えました。

そして、アヤ・ソフィアはやはり全体的に傷みがきているらしく、ガイドさんが示した柱と壁を見ますと、ちょっと傾いているのがわかりました。…大丈夫?

上からしか見られないということでしたが、これだけの建物が見られてかなり満足しました。出口に向かう前に振り向いた壁には、聖母子の両側にコンスタンチノープルを捧げるコンスタンティヌス帝と、アヤ・ソフィアを捧げるユスティニアヌス帝のイコンがありました。コンスタンティヌス帝は城壁に囲まれたコンスタンチノープルを、ユスティニアヌス帝はアヤ・ソフィアの聖堂を捧げています。(当然ミナレットは立っていない)。この絵の実物が見られるなんてー、と感激。

そもそもこの建物の形式はビザンチン様式で、ベネチアの聖マルコ大聖堂もビザンチン様式で作られています。最近テレビでベネチアを取り上げた番組をやっていて、聖マルコ大聖堂の内部が少し映りました。そうしたらアーチにドームを載せているのがアヤ・ソフィアに似ていました。

ということで、トルコのモスクはビザンチン様式を継承していることがわかりました。
ブルーモスクとか、スレマニエ・ジャミイとかの巨大なモスクはアヤ・ソフィアに対抗してそれ以上のものを作ろうとしたようです。しかしその建築様式のベースはビザンチン様式だったのです。