孤独に火をつけて | 上田 真一郎 犬のためのヒーリングデバイス CS60

上田 真一郎 犬のためのヒーリングデバイス CS60

   大切なことは全部犬が教えてくれた
ペットと飼い主さんを「言葉」でつなぐコミュニケーションを。

 

 

空が低くて雲脚の速い雨まじりのあさんぽ

 

 

内観する、という言葉自体は手垢がつき過ぎ

た感も否めないのですが(あ、あくまでもボ

クの中だけです)、自分に向き合う為に集中

し、洞察し、考察を重ねることで自分には必

要のない要素を削ぎ落とす作業を総括すれば

それが内観なんだろうと思うのです。

 

今の世界は閉塞感が漂って、ライフスタイル

も変わっていく期待感よりも不安感の方が勝

っているからの五里霧中を行く覚悟だけを突

きつけられる状態なのですが、その中で一番

必要なことは「孤独」だと言うのです。

 

身を寄せていられるくぼみ、それが「孤独」

であり、「孤独」に身を置くことで得られる

自由は誰からも邪魔されることはなく、自分

に向き合う事が出来るのです。

 

例えば作家が締め切りを守らされる為に山の

手ホテルあたりで缶詰になることも「孤独」

を作り出すための手段。

 

松尾芭蕉も林芙美子も種田山頭火や尾崎放哉

も放浪という名の孤独の中で創作を続けまし

た。

 

今の子どもたちの置かれた窮状(ピンチ)こ

そ、大戦以降誰もが経験していない孤独(チ

ャンス)ではないでしょうか。

 

自分で自分の感性を磨いて育てて欲しい。

 

歩々到着という禅の言葉を用いた山頭火の随

筆があります。

 

歩々到着。(ほほとうちゃく)

 

それは一歩一歩がそのまま到着であり、

一歩は一歩の脱落であることを意味する。

 

一寸坐れば一寸の仏という語句とも相通ずる

ものがあるようである。

 

私は歩いた、

歩きつづけた、

歩きたかったから、

いや歩かなければならなかったから、

歩いたのである、

歩きつづけているのである。

きのうも歩いた、

きょうも歩いた、

あすも歩かなければならない、

あさってもまた。

 

木の芽草の芽歩きつづける

はてもない旅のつくつくぼうし

けふはけふの道のたんぽぽさいた

 

どうしようもないワタシが歩いてをる

 

山頭火の放浪は何かに追われる背中を感じさ

せるのですが、だからか、分け入っても分け

入っても青い山にも自然豊かな爽快感ではな

く、空恐ろしい不安感や寂寥感を深く青い山

に投影しているように感じているのですが、

まさに今も似た状態であれば、貴重な孤独を

味方に出来る最高の時間だと思うのです。

 

そう考えると、孤独という言葉も仲良くなれ

そうに思えませんか

 

   

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