最近思ったのですが、ついつい他人を責めてしまう場合って、

実際には自分の心の問題であることが多い気がします。



例えば、教えることでお金を稼いでいる場合は、

しばしば相手が努力したり継続しないことを責めたりします。

「何もしてくれてないじゃないか」などと言われたのなら、わかるんですけどね。


相手には相手のペースがあるし、10万円の金額の中で、5万円分ぐらいしか教えられてないと思うと、

どうしても相手に損をさせて悪いことをしたみたいな感じになります。

それで相手にもっと学ばせようとして、努力が足りないという風に責めるわけです。

人それぞれに合わせて価格設定をすると、罪悪感は消せると思うんですよね。


フリーミアムのように、課金者が無料利用者の分まで払っていることもあるので、

別に悪いわけではないのですが、罪悪感があるぐらいならそこは見て見ぬフリでなく、

納得できるカタチにしたほうがいいんじゃないかなと思います。


他にも、恐怖があったり焦りがあったり。

本人のためにならないということで、相手に何かを促すのであればいいのですが、

大抵は自分の焦り、怒り、不安、恐怖、期待、罪悪感だったりするんですよね。


こういう場合は自分にも原因があると言えるので、

見直したほうがいいでしょう。

その上で、相手のためになることをすればいいと思います。


もちろん、相手の努力不足であるということ自体は、事実であることが前提です。

思い込みなどではないことが前提です。

でも努力するというのは、他人にはあまり操作できることではありません。

ある程度は、モチベーションに寄与することも可能なのですが。

なので、根気よく見守ったり、待ったりすることができないと教えることは厳しいと思います。

格差云々の話が流行っているようなので、言及してみます。

「格差を否定することは、がんばった人が報われることを否定するもの」

「格差はモチベーションになる」

これらがおおむね格差の肯定論のようです。

他にもあるようですが、あまり意味はなさそうに思えました。


格差にも、単純に良い格差と悪い格差があると言えるでしょう。

良い格差と悪い格差の違いは、2つのシンプルな言い方で表せます。

「人にたくさん奉仕した人にたくさんの褒美をとらせる」

「人をたくさん殺したやつにたくさんの褒美をとらせる」

特に後者は、資本主義における格差社会と似ています。

手段は問われず、成果主義が成立するのは資本主義の特性が活かされています。

どちらにしても、がんばった人は報われます。

どちらにしても、競争原理が働いておりモチベーションに寄与しています。

まさに冒頭の格差論は、詭弁に過ぎないことがわかると思います。



結局格差論で、たくさん労働した人が多く報われるべきというのは少し論点としてずれています。

これは格差を肯定する根拠にはなりません。

格差社会や競争主義でなくとも、報われることは可能です。

なぜか既に社会主義を前提にしているようですが、資本主義以外の制度なんていくらでもあり得るでしょう。

もちろん、格差そのものが悪いわけではない上に、
格差そのものをなくすことは却って不平等になるので、格差をなくすという話ではありません。


重要なのは、格差というものが悪用の結果でも生じることです。

いいものを提供して、しっかり働いてたくさん売れて儲かったというのであれば、

それは善用した結果の格差です。


一方で、法律すれすれのことをして脅迫しながら社員を奴隷のごとくこき使い、

儲かったというのであればそれは悪用の結果格差が生じています。


格差そのものが悪いという話ではないということですね。

そうではなくて、悪い格差に対して悪いと言っているに過ぎません。

資本主義や相続・継続性のある制度は、かなり不平等な格差を広げることになります。

重要なのは、平等で公正な格差であることです。


努力によって格差が広がることと、不正や生まれの家によって格差が広がることでは話として大きく違ってきます。

格差そのものを肯定したり否定することは、実にナンセンスです。

格差の質や過程が重要ということですね。




それと、「富裕層が迷惑をかけているか」という反論(になってない反論)があるようですが、

どう考えても迷惑かけているでしょう。

人は人それぞれ互いに迷惑をかけあっています。

もちろん、助け合っていることもありますが。

そもそも富裕層というのはあまり関係がないです。


重要なのは企業であり、富裕層としての活動はプライベートの活動しか社会に影響しません。

まぁこれは個人でも同じですが。

別に世の中から富裕層が消えても、特に問題は起きません。

富裕層をターゲットにした企業は困るかもしれませんが。

誰かが必要なポジションの後を継げば良いです。

所詮人間なんて、どんぐりの背比べです。

社会的な運営においては、代わりのきかない人間なんていません。

やり方や感性などは違っても、なんだかんだ運営できる人ってのが大抵のポジションに少しはいるものです。



ところで、確かに格差は不平等的なものも少なくないので放置しておいていい問題ではないでしょう。

だからといって、社会が悪い、格差が悪いといったように人生の責任を外部化するのも問題です。

自分の人生においての責任は、常に自分にしかありません。

自分の人生の責任は、自分にしか負えませんからね。

一方で制度として、悪いところや不平等なところはしっかりと指摘するべきだと思います。


というわけで、少し書いてみました。
「教えられる」という単語には、2つ用法があります。

それは、受け身と可能です。



「教えられるということには限界がある」

これはどちらの用法かというと両方です。


勉強でも、スポーツでも、思想でも、ノウハウでもそうなんですが、

何かを学んで一流になりたいと思っても、

どうしても自分でかなりの時間を、実践に充てる必要があるということに気がつきました。


勿論もともとそういう考えはありましたし、

当たり前の考え方ではありますが、

結局自分で実践するしかないんだなってことをまさに経験的に学びました。

やはり経験してみないと腹に落ちませんね。


そもそも教える時は、もちろん経験者が基本的に教えるのですが、

経験した結果の学びを教えるので、経験を伝えるわけではないんですよね。



クオリアという概念がありますが、まさに経験そのものが必要な理由がここにあります。

マリーの部屋といった思考実験なんかもありますね。

まぁその思考実験はともかく、現実的には知識や聞いた話にはないものが、

経験にはあると言えるでしょう。



経験そのものを体験した上で、自分で学んでいかないと身についたとは言えないなと思いました。

セミナーなどでは、やはり実践がほとんどのものを受講するのがいいと思います。

座学は、本などで学ぶべきでしょう。


あと人の話はよく聞いた方がいいのは確かですが、

よく聞いた上でしっかり取捨選択するべきでしょう。

人の話を聞くことは、確かに学びになりますが限度があります。


他人に流されること自体は問題ではありませんが、抜け出そうと思えば抜け出せること、

またその流れを利用することが大事ですね。


ただ流されている状態はよくないでしょう。


「教えられること」というのは、こうした様々な問題を含んでいます。

正しいことというのは、立場や考え方、価値観などによって異なってきます。

ですから、何が正しいのか、何が必要なのかを自分で判断することが大事ですね。



そして、経験や実践もバランスよく行っていくのがいいでしょう。
気を遣いすぎて、コミュニケーションがうまくいかなくなってしまう場合があります。

まさに私がそうだったのでよくわかります。

まぁ今でもそういうところはありますけど。



「相手に気を遣わせてしまうから気を遣うのはよくない」



という助言らしきものをよく見かけます。

これ自体が気を遣う人に、さらに気を遣わせるとは思わないのでしょうか。

頭ではわかっていても、気を遣ってしまうのだからこんなことを言ってもあまり意味がないとよく思ったものです。


この解決策として、誰もが一度は考えたことがあるのが気を遣うことそのものの放棄でしょう。

ですが、これはあまりおすすめしません。

そもそも気を遣わないというのは、自己中心的になるということです。


確かに自分は楽になるでしょう。

ですが、これは却って相手がますます気を遣うことになる可能性もあります。

気を遣わないということは、まさにただの子供でしかありません。


子供ですら気を遣える子もいます。

大人になるというのは、気の遣い方を身につけるということでしょう。



そこで重要なのが、

「顔色を窺うこと」と、「相手のために気を遣うこと」は違うということです。

これはまさに気の遣い方が違うので、何が違うのかというと気の遣い方が違います。



すなわち、自分のために気を遣うのか、相手のために気を遣うのかということですね。

前者が顔色を窺うことです。

ご機嫌取り、お世辞、おべっかの類もそうです。


相手のために気を遣う場合は、何が相手のためになるのかが重要ですね。

しかしこれは、完全にわかるわけではありません。

どんなに本心で相手のためになると思っていても、それは自分が勝手に思っているだけです。

ですから、こだわり過ぎないようにします。



気を遣いすぎるというのは、まさに気をコントロールできていない状態です。

気に遣われてる状態ですね。

気を遣うとか、相手のことを思うとか、相手に何か言われるとか、

そういったことをしてもあまり影響をうけない状態になることが大事です。


とはいえ、それは見ないようにするということではありません。

ここがとても難しいのですが、ここを乗り越えれば、

気を遣うことができる上に自分の芯を持てる状態になれます。


修行だと思って、克服してみるといいです。

いろいろ試すといいですね。


顔色を窺うなどどんな気の遣い方をしていたとしても、

気を遣うことそのものの放棄はあまりおすすめはしません。

それではただの鈍感な人になってしまいます。


様々なことに気づき様々な考えが浮かぶことで、却ってなかなか行動や発言ができない状態でしょう。

しかし、これらをうまく処理できるようになれば、それはとても素晴らしいスキルになります。

私もどうにかして、使いこなせるようになりたいと思います。

一緒にがんばっていきましょう。
自分がされたらイヤなことを他人にするなという教え方は、ちょっと違うのではないでしょうか。

された人の気持ちを十分に想像し吟味し、その上で自分の意思で決めることが大事だと思います。

今までずっと違和感があったので、ちょっと掘り下げてみます。




されたらイヤなことは人によって違いますよね。

バカって言われてもいい人と、言われたらイヤな人がいます。

この教えは、ここが問題になっていて欠陥状態です。

されたらイヤだろうと思って自分はしてないのに、人にされることは多々あります。

その人に同じことをすれば反発を受けたりします。

理不尽ってやつですね。


結局、この教えはちょっと違うということです。



相手にとって、これはイヤなことなのか、どれぐらいイヤなのかといったことなどを、

よく考え吟味した上で、自分の本心に沿っていくことが大事でしょう。


これをしたら相手は嫌がるかもしれない。

そう思ってやめようと思ったらやめればいいですし、

せざるを得ないから仕方ない、別途フォローしようと思ったらそうすればいいでしょう。


結局、されたらいやなことでもしなきゃいけないことはありますし、

自分がしなくても他人にされることもあります。

自分は平気でも、他人にとってはイヤかもしれませんし、

逆も然りでしょう。



「自分がされたらイヤなこと」という考え方は、結局自分の考えが中心になってしまうんですよね。

「相手がされたらイヤなこと」をしないことが大事だと思います。




本質的には、「相手がされたらイヤなことはその相手にはしない」という言い方がより的確だと思います。

でも、相手がされたらイヤなことというのはわかりません。

予想はついたり、話には聞いても、それが本当かどうかはわからないですよね。

結局、相手のイヤなことは話を聞くなどして自分で想像していくしかありません。


もっとも手っ取り早い想像の仕方から、「自分がされたらイヤなことは他人にはしない」という言い方につながっているのだと思います。



とはいえ、常にイヤなことをしないでいられるわけではないでしょう。


購入した商品に欠陥があれば、クレームは言わざるを得ません。

「私はこれをされたら嫌だ」ということを、相手はイヤかもしれませんが主張するべき時もあります。

なので、いずれにしてもこの考え方は1つの方針に過ぎません。



生きるということは、他人にイヤなことを強いたり、あるいは強いられることを排除することはできないと思います。

ただ、強いるにしても強いられるにしても、よりいい方法や心の持ち方はあるでしょう。

相手を奴隷と思って強いるのと、協力してほしいと懇願して強いるのではやはり違います。


意識していくことが大事ですね。