こうしてブログを書き始めているので、

ブログをかいたほうがいい理由をまとめておこうと思いました(笑)

インフレ状態みたいなところがありますから、なかなか続けたり質のいい記事を書くのが難しいんですけどね。

やはりいろいろ成長や経験において、有意義なはずなのでまとめてみます。




1)整理される

自分の頭の中が少し整理される感じがしますね。

特に曖昧だった部分や、自分はこういうことを思ってたという深い部分に気づくことができます。

また、他の人にとっても整理されるきっかけになります。

整理目的の記事は、他の人にとっても整理の役に立ちやすいと思います。

ただ前提知識が少ない状態で読むと、かえって混乱するかもしれませんが。

それはなんでもそうだと思うので、整理目的でなく勉強目的という感じでしょうか。




2)記録やデータベース

どういったことを考えたのかという記録、データベースになります。

意外と考えたことって忘れてしまいます。

見直してみると、こんなこと考えたのかーと感心する場合があります(笑)

まぁ大抵は、恥ずかしい思いをすることが多いかもしれませんが・・・。

とはいえ、メモ代わりにもなります。

わざわざメモするほどじゃないことって、結構ありますからね。

折角経験したことや知ったことがあったのであれば、記録しておきたいところがあります。

そういった意味でも有意義かなと思います。


また、一方で書くことによって記憶の定着になることもあります。

自分の頭の中にも記録されやすくなるということですね。

例えるならすでに一度スピーチの原稿を書いておいた状態なので、

関連テーマが話題になったときには、とても話しやすくなるでしょう。




3)表現の練習

表現の練習になりますね。

文章の書き方とか、思考回路が整ってきたりします。

昔よく書いてた頃は、日常がとにかくネタ探しの視点で過ごしてた記憶があります。

今はあまりそうでもないですが。

とはいえ、アイディアはできるだけメモするようにしているので、

その辺からネタだせると思いますけどね。

もう少し日常を、話や書くことのネタにできるようにしたいので、

そういった表現の練習や精錬になると思います。








コミュニケーションなどは、人気が出るか出ないかといった運の要素も絡んでくるので、

重要なのはこのあたりかなと思います。

ブログを続けている内にまた変わってくるかもと思うので、

今後も加筆修正等すると思います。


先土器時代から現代、そしてしばらくの未来の時代で、
これだけしてればいいなんてものが、あるのではないかと探してきました。

現代で言うと、いつの時代でも需要がありそうな製造という感じですね。

製造の技術を身につけて間違いはない、というような考えは、
珍しくないと思います。
もちろん、これはやはり視野の狭さというのがあるとは思います。
こういった考え方が、もっと普遍的な、抽象的な領域であるのではないかと探求してます。

先土器時代でも、何かを作るということはそれこそ価値のあることだったと思います。
当時ならたいしたものは作れず、差別化とかはムリだったかもしれませんが。

また、未来においても、製造が相変わらず重要であるというところは、しばらく変わらないのではないかと思います。


でも、言うまでもなく製造さえしてればいいわけではないですよね。
むしろある意味、もっと大事なことがあります。

それがまさに、人なんだと思います。

先土器の時代なら、製造だけでなく、狩猟など食料調達も必要です。
電気もなく、火を起こさねばなりません。
トイレも水道もありません。

先土器時代に、これだけしてればいいなんてものはそれこそ全くなく、
むしろいろいろなことをしつつ、何より人を軽んじないようにすることが大事だったんじゃないかなと思います。

現代では、分業がありますから、ある程度は分けられます。
貨幣制度があるので、物々交換はしやすいです。

それでもやっぱり、人を外すことはできませんね。
ここでいう人というのは、
コミュニケーションという意味でもありますが、人間性といった自分の内面のことでもあります。




1)時代によってかわっていく

何をするべきなのかということは、当たり前とも言えますが時代によって変わっていきます。

でも、これは科学的にはちょっと不思議かもしれません。

科学的な考え方だと、いつの時代でもすべきことは変わらない感じがします。


昔は戦争が当たり前でしたが、今は戦争は避けるべきものとされています。

やはりそれぞれの時代のあり方によって、人々の意識は変わるんだと思います。


当時の人たちは、戦争をすることが当たり前という感じの意識だったのでしょう。

もちろん、嫌々だった人も少なくないでしょうが。


意識というものは、時代によって変わっていくということを考えると、

時代によってすべきことも異なります。

なので、これさえしてればいいってことはなく、

むしろいろいろなことをしておいたほうがいいなぁと改めて思いました。


とはいえ、何事も浅く広くがいいとは限らず、

深い分野と、中間ぐらいの分野を多めにもつのがいいかなと思います。




2)○○を制するものはすべてを制す

○○には、何が入るかは人によって異なるでしょう。

情報が入った文章は、結構多く見る感じがしますね。

また、企業においても、

マーケティングを制するものは企業を制する

なんて言ったりします。

経理とか営業とか社長バージョンなどいろいろありそうですね。


何にせよ、間違っているわけではないでしょうが、

やはり1つの視点でしかないと思います。


特にマーケティングは結構重要だと思うんです。

統計的な部分ではなく、感性的な部分ですが。

でもやっぱり、結局全部必要なんですよね。

人間で言うと、心臓さえあればいいというわけではなく、

胃腸も腎臓も肝臓も骨も血液も呼吸器など、全部必要ですよね。

重要性という概念は、確かにあります。

心臓はものすごく重要でしょう。

でも、それは1つの考え方に過ぎず、ただ相対化しただけということですね。



全体の視点を維持しながら、細部を見ていくのがいいかなと思いました。

できるかどうかはまた別の話ですが(笑)
ハックル先生という方が、天才について論じていました。

ご自身で天才と称されているそうです。

自称している人を見ると、たいしたことなさそうに思えてしまうかもしれません。

でも、実際に見てみると深いなと思ったので記事として書こうと思いました。

天才の真実・真理は、子供の頃から興味があったので、継続していろいろ思索したりしています。


1)天才は社会不適合者なのか
さて、まず以下の部分です。

長年天才を観察して分かったのは、社会不適合はあくまでもイメージで、そもそも他者が天才と評価している時点で、ちゃっかり適合しているんです。イメージ戦略の上手い天才は、自分を社会不適合者に見せかけることに長けています。そこまで社会に適合できるんです。


この見方は面白いなと思いました。

ただ、これについてはやはり懐疑的にならざるを得ないです。

天才という部分だけが結果的に適合したに過ぎない気もします。


社会不適合というイメージによって、社会に適合しているというケースは確かにあるでしょう。

でも、それを意図しない人のほうが天才として多いかと思います。

そもそも社会不適合というイメージ戦略に、あまり意味はないように思えます。

それに天才といえど、人のイメージを操作できるわけではありませんし、

世間がついていけないなどの理由で、社会不適合というレッテル貼りをしたに過ぎないとも言えます。
この場合、イメージ戦略関係ないです。


更に、社会に適合する人が、天才だけかといえばそうではありませんよね。

凡人でも社会に適合しているとされる人は多いわけです。
むしろ社会不適合者というイメージよりも、うまく適合している人が多い気すらします。

天才の社会不適合者というイメージそのものが、社会に適合した結果というのは論理の飛躍かなと思います。

ただ、社会不適合という結果は、社会に適合した上で生じる概念なのは確かでしょう。

そもそも根本的に適合していないのであれば、それは社会に存在しないことを意味しており、
社会不適合という概念すら生じないからです。

つまり、本当に不適合ならすぐに消えるわけです。

ちょっとでも適合したからこそ、社会不適合者としてやっていけるって感じでしょう。

例えるなら、コミュニケーションをした結果、不快を生じたとして、それはコミュニケーションが不成立だったわけではありません。

相手が侮辱してきて、不快になったのであれば、それはコミュニケーションが成立しています。

社会不適合というカタチで適合するっていうのはこんな感じですかね。

社会には不適合でも、この世には適合しているって感じでしょうか(笑)

でも、より良いコミュニケーションというものがあるのもまた確かでしょう。

よって、より良い適合の仕方もあるわけです。

社会不適合論において、

コミュニケーションが不快だった人間を社会不適合と呼んでいるに過ぎないのであれば、

イメージ戦略云々はナンセンスとも思います。



とはいえこの発想はなかったので、面白いなと思いました。



2)天才とは遺伝か環境か
ハックル先生は、天才はほぼ後天的なものによるとしています。

私も以前はそう思ってましたが、この話を見るとますます天才は必ずしも後天ではないなと思いました。

ほとんど後天で、もっといえば環境です。天才は天才的な環境で育った。英才教育とか、普通に受けてる人が多いですからね。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、誰一人、英才教育を受けていない人がいなんですよ?これってみんな疑問に思わないのかと思います。
英才教育を受けたからといって天才になれるわけではありませんが、英才教育を受けないと、絶対に天才になれません。これは確かです。祝うべきか、残念と思うべきかは分かりませんが。



何事にも裏表があるとはよく言ったもので、この話にも裏である先天的な側面があります。

英才教育をうけて誰もが天才になれるわけではないということは、

英才教育はきっかけに過ぎないという考えが必然に生じます。


つまり、英才教育によって天才になったとして両者の因果関係を認め、

一方で英才教育によって天才になれるとは限らないというふうに両者の因果関係を否定することは、

天才になれるかどうかは外部に要因があることを認めることになります。


その外部とは何かというと、結局生まれつきの素質になるんじゃないかと思います。

英才教育によって天才になるかならないかの分かれ道は、

生まれつき天才になれる素質をもっているかにかかっているということになります。


そして、その素質があるかないかは英才教育を受けてみて、

開花しないとわからないという話に過ぎません。


結局これは、後天どころか先天的な話に思えます。

英才教育を受けることは完全に賛成ですが、この話ではただのきっかけに過ぎません。

英才教育が、凡人から天才に育てたとはまだ全然断定できないと思います。



それに、英才教育を受けていない天才もいるでしょう。

ただ、英才教育の質によって天才の再現率を高めることができるのであれば、

後天的である可能性はかなり高くなるでしょうけど。

もし、様々な種類の英才教育において、天才の出現率が横ばいであれば、

それはもう完全に天才とは先天依存だと思います。

英才教育はきっかけに過ぎないということですね。



英才教育を受けたほうが生まれ持った素質を活かしやすいのは確かだと思いますので、

結論に変わりはありませんけどね。


共感覚者や、サヴァンの人などを考えると、

やはり先天的な側面も見過ごせないと思います。


ただ、この生まれつきの素質は、科学的には偶然あるいは遺伝としか言いようがありませんよね。

一方で、生まれ変わりの法則を前提にすれば、天才とは過去の人生の努力の結果という見方もあるようです。

もし生まれ変わりの法則を前提とすれば、天才とは努力オンリーということになります。

そういった意味では、天才とは完全に後天的なものであるという余地があります。

科学だけで考えると、完全に後天性と言える余地は全くないでしょうね。

後天的な要素がどのぐらいの割合を占めているかが論点になるでしょう。




3)幸福とは自分の内にある
最後に天才とは関係ありませんが、紹介します。

人間はどんな人でも他者から理解され得ません。だとすると、幸せになる人は「他者から理解されること」を望まない人ですね。むしろ誤解を積極的に受け入れる、あるいは誤解を積極的にさせる人です。その代表が長嶋茂雄さんだと思います。


長島茂雄さんがどうなのかはわかりませんが、全くもってその通りと思います。

幸福とは、外ではなく自分の中にあるものだと思います。

ですから、他人から褒められたい、注目を浴びたいといった名誉を求めることをしても、

結局虚しさが必ず伴います。

表面的に、あるいは一時的にしか満たされないでしょう。

誤解を積極的にさせるかどうかは疑問の余地がありますが、

少なくとも積極的に誤解させることを躊躇わないのは確かでしょう。

「お金なんていらない!」

と言えば叩かれます。

そういった感情論は抜きにしてお金とは何なのかを、

論理的に、あるいはそうでなくとも冷静に探求してみます。



1.)お金は必要か

さて、この世の中においてお金は必要でしょうか。

はい。明らかに必要ですね(笑)

なぜか。

それは資本主義だからです。

資本主義である以上、生活にはお金が必要です。

もし、お金がなくても生活できたとしたら、それは偶然に過ぎないと言うべきでしょう。

資本主義とは文字通り、資本を主義とする社会です。

つまり、資本という杓子定規によりあらゆる物事を一元化する制度です。

Aに投資するのとBに投資するとき、Aが儲かるなら当然Aを選択します。

融通してくれるところがほとんど見つからないB社は、倒産したとします。

感情論的には、就業者にといっては悲惨そのものであり援助すべきところでしょう。

しかし資本主義では、儲かることは人の世に役立つことであるという前提があります。

よって、倒産するということは、あまり世の中の役に立ってなかっただけと見なされます。

これが資本主義です。

感情の挟む余地などありません。それが論理です。

もちろん、論理や資本主義だけでこの世は運営されていません。

それに、資本主義といえど欠陥があることを認めているからこそ、

政府が介入しているわけです。

だから、現実には感情は挟まれますけどね。




いずれにせよ、すべて資本的に見られることになります。金になるかならないかってやつですね。

今でいうきれい事、たとえばエコだとかボランティアだとかそういったものも、

イメージ戦略として有効であり、結果的に金になるという側面などがあります。

だから偽善という側面がどうしても見え隠れします。

もちろん純粋に役立つとしてやっているところも少なくないとは思いますが。

ただ、エコなんかは金になるからという側面が、結構見える感じもしますね。


その辺はともかく、資本主義においては金こそがすべてという前提があります。

儲かることは役立つことであり、儲からないことはあまり役立たないという仮定があります。

もちろん、これはこれで間違っているところも少なくないでしょう。

いずれにせよ、こういったことを踏まえると、生活にはどう考えてもお金が必要と言えるでしょう。

資本主義という杓子定規である以上、これは当然のことです。

お金が必要ないと言えるのは、社会主義や共産主義の国で実際にそれを実現している人だけかと思います。
今のところ、成功例はないように見えますが・・・。




2)お金は本質なのか

しかし、お金が人間やこの世の本質かというと、全く違うでしょう。

お金で買えないものはないなんて言われますが、いくらでもあるように思えます。

特に代表的なのは、人の心ってやつですね。

なんかうさんくさい響きですね。

でも、お金を払うから愛してくれっていって、本当に愛されることはあるでしょうか。

もちろん全くないとは言いませんが、おそらく滅多にないでしょう。


結局これは、心を買ったつもりに過ぎません。

それに、どちらかというとこれはただ単に相手を拘束しているだけで、

相手を拘束する権利を買っただけに過ぎないように思います。


もし本当にこれで愛されたとしても、

それはたまたまでお金は関係ないと考えるべきです。


また、もしお金を払ったことで愛されたのであれば、

その場合愛されているのはお金の方でしょう。


お金は不要
お金こそがすべて

両者ともに極端です。

もちろん極端だからというのは、何の根拠にもなりません。

しかし、資本主義であるならば明らかにお金は必要です。

ですが、お金には本質的な価値はありません。

それは貨幣制度から考えても言えることです。

そして、世の中や人間の本質が、お金ではありません。

お金とは、ただの物々交換にすぎません。


ですから、適した生き方は中庸でしょうね。バランスが大事です。

お金に振り回されず、しかし拒絶もしないことです。

割り切ってお金を受け入れ、しかし否定をしないことがいいと思います。