真理や真実を探究していくなら、やはりクリシュナムルティは無視できないと思うので、これから触れてみます。

クリシュナムルティの本を読んでいて、最初に一番大きな衝撃を受けたのが、


「思考者とは思考のことである」

という部分でした。

今まであった1つの違和感、あるいは謎を解き明かすものだったからです。


葛藤の原因は葛藤そのものということは、もともと他の本を読んだりしていた中でわかっていました。

人間は肌の内側と外側で、自我と外部を分けていますが、

これは解釈に過ぎません。


この解釈が、葛藤や争いなどの原因ということですね。

ここまでは、比較的普通のことだと思います。

しかしクリシュナムルティは、更にこの考え方そのものが思考であり、思考者であり、錯覚であると指摘します。


視覚によれば、人間には外側にはっきりと輪郭があります。

触覚の外側も、やはり肌です。

ですから、肌でわけることはとても自然なことのように思えます。


しかし、この思考そのものが思考者なわけです。

思考者とは思考のことであるわけです。


このことには、大変感銘を受けたものです。

しかし、彼の本を読み進めていくと、

「思考者とは思考のことである」という思考をすることに、何の意味があるのだろうかと疑問に思い始めます。


依然として思考は続いているわけです。

これではいつまでも変わらないのではないかと思ってしまいます。


ですが、クリシュナムルティによれば、

「思考者とは思考のこと」に気づくのは、知覚(あるいは空、秩序、愛など)ではなく、

思考のようです。


もしそうであるなら、

何の問題もないということですね。


秩序、知覚にはそもそも思考が生じないので、

「思考者とは思考のことである」という思考も生じません。



よって、このことに気づくのは間違いなくエゴということですね。


思考者とは思考そのものであり、エゴとは思考そのものであり、錯覚に過ぎないと思考そのものが気づきます。

それで問題ないということですね。

思考が無意味であることを知るには、思考を腐るほどするしかないのかもしれません。


「友達なんていなくても平気だ」とか、

「一人でいれば慣れてきて寂しさなんてなくなる」

といった話がありますね。


しばしば世間的な友達の価値観に反発するかのようにも見えるかもしれません。

確かに、実際に寂しさを誤魔化しているだけでしかないケースもあるでしょう。

友達なんていなくて問題ないという反発をしているだけの場合もあるでしょう。


しかし、これには違和感があります。

というのも、むしろ最も孤独感を誤魔化しているのは、友達が多い人や、

社交性が高い人の方だと思うからです。


どんなに意気投合しても、どんなに仲が良くても、

本当に理解し合えるわけではありません。

これはそもそも不可能なことです。


どんなに仲の良い恋人同士であったとしてもです。

感覚を共有できるわけでも、思考が共有できるわけでもありません。

また、感情も同じ物事においても異なることは多々あります。


理解し合うことはできません。

従って、孤独感は完全に解消できません。

特に仲が良い相手に対して、ついつい理解を求めてしまいがちです。


しかし、理解を求めている時点で、一種の孤独感があります。

寂しさがないのであれば、相手の理解など不要ですから。


ただ、これは友達が不要であるという話ではなくて、

どんなに頑張っても孤独感を否定することはできないということです。

要するに、孤独であることを受け入れることです。


ただ見守る感じです。

友達の例でいえば、友達はいてもいなくてもいいといったニュアンスですね。

柔軟に対応する感じです。


もちろん、意気投合すれば仲良くなればいいでしょう。


ただ、相手に理解を執拗に求めたりしてはいけません。

理解を求めなくても理解されることに、意味があるのです。

だから友達なのです。


自然に生じることこそが、友達との関係です。

キャラを作ったり、ムリして友達と多く付き合うことは、

孤独感を誤魔化し続けるのであとでものすごい孤独感、虚無感に襲われるのではないかと思います。


本能のままでいいわけでもないのですが、

自分を作りすぎるのもよくないですね。
中庸食品ということで、そばなどを食べようとしている人や、食べている人は多いと思います。

私は陰性体質なので、中庸食品を多めに摂りたいと思っています。

その際、気をつけてほしいところがあるのですが、

その前にそもそもこういった食品は本当に中庸なのかという疑問があるかもしれません。


陰性や陽性といったことが情報によって違うケースは、しばしば見られます。

例えばそばの場合は、中庸~陽性の間ではないかと思います。

白米だったら、陰性~中庸でしょうか。


なぜ同じ食べ物なのに情報が違うのかというと、地域の違いもあります。

育ち方も環境も違います。

感じ方にも、多少差がありそうですね。


なので、理想は自分で感じられることでしょう。

断食をすると、陰陽のエネルギーを感じやすいようです。

砂糖なんかは、常温で保存していてもひんやりしていますけど。


まぁ環境が違えばまた違うかもしれませんが・・・。

中庸食品だと何も感じないかもしれないので、

陰陽が激しい方が感じやすいでしょう。

体にはあまり良くないかもですが・・・。


さて、そんなわけで中庸を目的として白米やら蕎麦やらを食べようということになったとして、

注意してほしいのが原料や製法です。

同じ小麦粉でも、全粒粉はおそらく陰性度が弱いと思います。


白米も、胚芽米などのほうが陰性度が弱いでしょう。

とはいえ白米の時点で、中庸的とは思うので気にしなくていいかもしれませんが。

そして原料で意外と陥りやすいのがそばです。


というのも、大抵の市販の品はそば粉よりも小麦粉のほうが多いからです。

7割~9割ぐらいでしょうか。かなりの部分が小麦粉です。

そばはアミノ酸スコアが高い食品とされていますが、小麦粉が大半では意味がありません。


血糖値も急上昇します。

そば粉は血糖値が上昇しにくいのですが、それで小麦粉が大半のものを食べてしまえば、

ほとんど意味がなくなります。


さらに、加工に加工を繰り返しているわけですから、陰性寄りになっている可能性が十分あります。

小麦粉の割合がどれぐらいまでなら安全圏かはわかりませんが、

最低5割まで、1~3割ぐらいには収まる物を購入するといいかもしれません。

特に100%そば粉を使用している十割そばは安心でおすすめです。





陰性の人は、甘い物や糖質系が好きだと思いますので、

こういうところで工夫していくと改善していきやすいと思います。


スピリチュアルやオカルトなどに対する批判で、

「なんて非科学的なんだ!」

といったものがよくあります。


しかし疑問なのは、そのスピリチュアルなどの思想は、

紛れもなく科学によって引き起こされたものです。

少なくとも科学を信仰するのであれば、このことを前提とするしかありません。
(科学に対して中立の立場を維持する場合は話は別ですが、そういった人は非科学的なことに対しても中立なので除外します)



思考も電気の一種なわけですから、その思考も科学によって引き起こされています。

それなら、その思考を引き起こした科学を批判すべきではないでしょうか。



もちろん、「非科学的な思想体系(スピなど)に関することの思考」という科学的な現象に対して、

「それは非科学的思考に過ぎない」という(批判的ながらも結局は)科学的現象が生じただけですから、

それはそれでいいのですが。



どちらも、科学的現象の中にあることですから、

科学的にはどっちがどうとかないはずです。


少なくとも、何らかの科学的理論によって、

「スピやオカルト思考」という電気信号と、

「スピやオカルト思考は非科学的である」という電気信号に、

科学的優劣や比較の結論を与えることはできません。



私が科学において違和感があるのは、

前述にもかかわらず科学の中で科学を証明している点です。

「この実験をやって再現性100%だから、こういった法則がある」という思考(科学的現象)が、

科学的に引き起こされているわけです。



その科学という名の思考が、科学という別の法則を証明している(あるいは証明しているつもりになっている)ことに、

違和感があります。



証明しているというよりも、証明させられている感じがしますね。

科学という体系の中に矛盾がないことは、確かに科学の立場からは重要です。

しかし一方で、科学が科学を証明したところで、どうしてもそれは証明にはなり得ないように思えます。


「我思う故に我あり」と一緒です。

これは、我の存在を証明しているわけではなく、

「我思う故に我あり」という思考を(証明)しただけでしかありません。



「そうは言っても、そこには我があるじゃないか」

という思考をしただけに過ぎません。

ただ思考だけがあるかもしれないのです。



同じように、

「あらゆる実験によって、この世界の謎を解き明かし、万物の理論を手に入れた」

という思考(科学的現象)が起きたことしか示さないように思えるのです。


思考に限らなくても、

科学的現象に過ぎません。

つまり、万物の理論を発見したという科学的現象が起きたことしか示さないのです。


これは極端な話ですが、

万物の理論を発見したとき、

それは科学が「人類に万物の理論を発見したという現象」をもたらしたに過ぎず、

人類にとっては「万物の理論」でも、

科学にとってそれは四天王の中でも最弱に過ぎないかもしれないのです(笑)



科学に踊らされているだけではないかということですね。

科学の中で科学を証明しているということですから、

全ての現象が科学の中にありますよね。

なので、「科学の中で科学を証明したという科学的現象」が起きただけということになります。



換言すれば、この世に存在する本物の真の万物理論とは、どんな理論体系もとることができるのではないかということです。

科学は固定的ですが、真の理論は柔軟性を持っている気がしてなりません。

科学とは、その中の一定パターンであり、

人類にとっては私たちが住んでいるこの宇宙のパターンが科学であり、

ましてやそのパターンの中で私たちは科学的だの何だの言っているに過ぎません。

このことは、あまりにも特定のパターン過ぎて真の万物の理論には遠すぎる気がするのです。


なぜなら、科学を生み出すものこそが本当の科学に思えるからです。

今ある科学は、あまりにも個別具体的すぎます。


尤も、それが科学といえば科学ですし、科学の探究を止むこともないでしょう。

人類が万物の理論を発見することがあるのかどうか・・・。

いずれにしても、やってみるしかありませんし、歩みを止めることもないかもしれません。


そして、依然としてこの記事も科学的現象に過ぎないかもしれません。

だとすれば・・・、科学とは一体なんなのでしょうか・・・・・・。
以前の記事 では、友達関係というのはただの共依存に過ぎないことが多いといったことを書きました。

しかし例えどんなに友達関係とはそんなものと理解したところで、

一生孤独かもしれない、ひとりぼっちかもしれないという恐怖が消えるわけではありません。


友達は友達でいてもいいわけですが、あまり依存しすぎないようにしましょう。

お互いを尊重できない関係なら、あまり維持する意味もないと思います。

共依存ということを踏まえてあえて維持するのも自由ですが。


さて一方で、恐怖は恐怖で向き合わないといけません。

多くの人が友達がほしいと思うのは、恐怖や焦り、不安があるからではないでしょうか。

様々な意味で友達がいたほうが、何かと心強いと思う人も少なくないでしょう。


この恐怖は、孤独感だけではありません。

就職できなかったらどうしよう、お金がなくなったらどうしよう、

夢を追いかけているのに実現しなかったらどうしようといったように、

ありとあらゆる恐怖がこの世では感じられます。



恐怖はさらなる恐怖を呼びます。

お金がなくったらどうしよう・・・。

不安だから、資格を取っておこう。


でも、資格取っても仕事がなかったらどうしよう・・・。

年をとるばかりなのに、クビになったら大変だな・・・。

最悪アルバイトをたくさんすればなんとかなるかな。


でも、周りに変な目で見られたら嫌だな・・・。

それに、アルバイトすら通るとは限らないし・・・。

病気になったら更にお金もかかっちゃうな・・・。



このように、恐怖は連鎖しやすいのです。

では、恐怖の連鎖から私たちは逃れることができるでしょうか。


日本の借金が大変なことになっていて国が破綻するかもしれないとか、

食糧危機や水不足になってしまうかもしれないとか、

様々なネガティブ情報が飛び交うこの社会の中で、

恐怖に支配されずに生きていくことができるでしょうか。


なぜ私たちは恐怖に支配されるのでしょうか。

それは、恐怖から逃げてしまうからです。

友達がいないという恐怖、あるいは自分に価値はないのではないかという恐怖があります。

誰にも助けてもらえず、見向きもされないのではないかという恐怖です。


あるいは、夢が実現しないかもしれないという恐怖です。

夢が叶わず、みじめで悲惨な人生を送っているかもしれない恐怖です。

未来のみじめで哀れな自分を目撃することに対する恐れです。


この恐怖から逃れるために、人は未来に希望を託し、

恐怖は見て見ぬフリです。

しかし、恐怖から逃げれば逃げるほど恐怖は大きくなります。


これは例えるなら、あと3時間で死ぬと宣告されたときに、

時計をあえて見ないようなものです。

ですが、いつ死ぬのかわかりませんよね。

1時間後か、30分後か、10分か、5分か、あるいは今死ぬかもしれないという風に、

心の奥では恐怖がただただ大きくなるだけです。


しかし、時計を見てしまえば、50分後に死ぬというそれだけの恐怖で終わります。

恐怖を見てしまえば、感じてしまえば最小限の恐怖で済みます。

5分後、10分後、15分後、20分後といったあらゆる可能性がある以上、

それらの可能性すべてに恐怖が生じます。


こうして恐怖は大きくなります。


ですから、恐怖から逃げてはいけません。

時計をちゃんとチェックして、残り時間を確認しないといけません。

そうでなければ、いつまでも恐怖は大きくなるばかりなのです。