真理や真実を探究していくなら、やはりクリシュナムルティは無視できないと思うので、これから触れてみます。
クリシュナムルティの本を読んでいて、最初に一番大きな衝撃を受けたのが、
「思考者とは思考のことである」
という部分でした。
今まであった1つの違和感、あるいは謎を解き明かすものだったからです。
葛藤の原因は葛藤そのものということは、もともと他の本を読んだりしていた中でわかっていました。
人間は肌の内側と外側で、自我と外部を分けていますが、
これは解釈に過ぎません。
この解釈が、葛藤や争いなどの原因ということですね。
ここまでは、比較的普通のことだと思います。
しかしクリシュナムルティは、更にこの考え方そのものが思考であり、思考者であり、錯覚であると指摘します。
視覚によれば、人間には外側にはっきりと輪郭があります。
触覚の外側も、やはり肌です。
ですから、肌でわけることはとても自然なことのように思えます。
しかし、この思考そのものが思考者なわけです。
思考者とは思考のことであるわけです。
このことには、大変感銘を受けたものです。
しかし、彼の本を読み進めていくと、
「思考者とは思考のことである」という思考をすることに、何の意味があるのだろうかと疑問に思い始めます。
依然として思考は続いているわけです。
これではいつまでも変わらないのではないかと思ってしまいます。
ですが、クリシュナムルティによれば、
「思考者とは思考のこと」に気づくのは、知覚(あるいは空、秩序、愛など)ではなく、
思考のようです。
もしそうであるなら、
何の問題もないということですね。
秩序、知覚にはそもそも思考が生じないので、
「思考者とは思考のことである」という思考も生じません。
よって、このことに気づくのは間違いなくエゴということですね。
思考者とは思考そのものであり、エゴとは思考そのものであり、錯覚に過ぎないと思考そのものが気づきます。
それで問題ないということですね。
思考が無意味であることを知るには、思考を腐るほどするしかないのかもしれません。
クリシュナムルティの本を読んでいて、最初に一番大きな衝撃を受けたのが、
「思考者とは思考のことである」
という部分でした。
今まであった1つの違和感、あるいは謎を解き明かすものだったからです。
葛藤の原因は葛藤そのものということは、もともと他の本を読んだりしていた中でわかっていました。
人間は肌の内側と外側で、自我と外部を分けていますが、
これは解釈に過ぎません。
この解釈が、葛藤や争いなどの原因ということですね。
ここまでは、比較的普通のことだと思います。
しかしクリシュナムルティは、更にこの考え方そのものが思考であり、思考者であり、錯覚であると指摘します。
視覚によれば、人間には外側にはっきりと輪郭があります。
触覚の外側も、やはり肌です。
ですから、肌でわけることはとても自然なことのように思えます。
しかし、この思考そのものが思考者なわけです。
思考者とは思考のことであるわけです。
このことには、大変感銘を受けたものです。
しかし、彼の本を読み進めていくと、
「思考者とは思考のことである」という思考をすることに、何の意味があるのだろうかと疑問に思い始めます。
依然として思考は続いているわけです。
これではいつまでも変わらないのではないかと思ってしまいます。
ですが、クリシュナムルティによれば、
「思考者とは思考のこと」に気づくのは、知覚(あるいは空、秩序、愛など)ではなく、
思考のようです。
もしそうであるなら、
何の問題もないということですね。
秩序、知覚にはそもそも思考が生じないので、
「思考者とは思考のことである」という思考も生じません。
よって、このことに気づくのは間違いなくエゴということですね。
思考者とは思考そのものであり、エゴとは思考そのものであり、錯覚に過ぎないと思考そのものが気づきます。
それで問題ないということですね。
思考が無意味であることを知るには、思考を腐るほどするしかないのかもしれません。