自然は誰のものでもありません。

この世にある資産はすべて、最初は誰の物でもありません。

自然は自然です。地球の資産と見なすこともできます。

しかし、人間が所有権というものを主張し始めると、ほぼ全ての物が誰かの所有に割り当てられました。

この世の商品、資産は自然にあったものをすべて変換、加工して作られています。



資本主義は、文字通り資本を全てとする体制です。

しかし、本来は生活のために資本主義があります。

資本主義の上に生活があるのではなく、まず生活があってその上に資本主義があるべきと思います。

なぜなら、自然は誰のものでもないからです。


この世に赤ん坊として誕生してきたときには、誰のものでもないはずの自然が、

既に誰かのものになっています。

きっと希少価値が高い自然を確保した人間が、資本主義を強く望んだのだろうと思います。



世の中では、逆転現象が多く見られます。

生活のための仕事が、仕事のための生活になります。

生活のための社会が、社会のための生活になっています。

生活のための法律が、法律のための生活になります。


そして、生活ためのお金が、お金のための生活になります。

それは物々交換のためだったはずのお金が、お金のための販売になります。


お金というものは、実在する資産や商品価値と等しくならなければなりません。

100万円分の資産、商品が存在するのに、1億円の紙幣が出回っているとインフレです。

1万円分のお金しか出回っていなければ、デフレです。


お金には、それぞれ額が違う物が用意されています。

これが、インフレやデフレの仕組みをわかりにくくさせています。

額面を印字せずに、例えば金100gの棒を貨幣として使うことを想定してみましょう。

金の棒は全部で1万本とします。



もし1億円の価値が市場にあるのであれば、金の棒1本あたり1万円の価値です。

もし100億円なら、1本あたり100万円です。

100万円なら、1本あたり100円です。


お金の価値とは、本来こうして決まるものです。

しかし、貨幣に金額を印字すると、まるでお金そのものが価値を持つような錯覚に陥ります。

更に、インフレやデフレの本質的な仕組みがわからなくなります。


今回の例からわかるように、変わるのはお金の価値であって物価ではありません。

物価が変わるとしたら、単純に需給の問題です。





最初に言ったとおり、この世の中の資産、商品は自然が源です。

ですから、資本主義で強者になることはまさに自然を押さえることですね。

これが一番シンプルな方法です。

もちろん、そうでない数多の方法もあるでしょうが。


とはいえ、資本主義ですから資本主義の本質は資本にあるとも言えます。

一方で、その本質である「資本」の本質は自然でもあるわけです。

理想は、自然を確保することですね。

しかし、自然は誰のものでもないはずなので、感謝だけは忘れないようにするべきでしょう。


あと日銀は、とにかく金融緩和を続けるようなので、インフレに備えておくことがいいのかなと思います。

特に、紙幣の価値が一気に下がるかもしれないので、

できるだけ紙幣を金とかに換えておくといいかもしれません。


まぁもしかすると、金融危機などが起きてデフレになったりするかもしれませんが・・・。


私たちはついつい甘くなってしまい、努力が手抜きになってしまったりします。

なかなかやる気が起きなかったり、明日やろうということになってしまったり・・・。


そこで、自分自身を変えたいと思いますが、なかなか続きません。

数日も経てば、元通りでいつも通りです。

いったいどうしたら自分を変えられるのでしょうか。


自分を変える方法は1つではありません。

よくある例としては、以下のものがあります。

・環境を変える(付き合う人を変えることも含めて)

・ゴ-ルをイメージし、ゴールから逆算する


環境を変えるのが有効であることはわかると思います。

ただ、変えられない環境もあります。

また、環境に依存してしまうことでもあります。

とはいえ、環境の変化が解決になりそうであれば、実行した方がいいでしょう。


一方で、ゴールをイメージして、逆算してそれを実行していくという方法は、

かなり難しいです。

これで変えられる人というのは、基本的に天才だけと思った方がいいです。


そこで提案するのが、素晴らしい物事だけを集めるようにすることと、

プレッシャーをあえて設定することです。

これは、どちらかと言えば環境の変化に入ります。


ただ、ガラッと環境を変えるわけではなく、理にかなった環境の変え方をします。

まず最初に挙げた、素晴らしい物事だけを集めるようにすることについて解説します。


これは、例えば圧倒的に素晴らしい人の本を読むことが挙げられます。

例えば、松下幸之助の本を読んでやる気がでてがんばれるのであれば、

その本を頻繁に読みます。


ついついネットサーフィンをしてしまうのであれば、

ストイックに努力してる人のブログを見るようにして、

一方でダラダラしてしまうようなサイトを見ないようにします。

とはいえ、きっと不要なものも見てしまうでしょう。


しかし重要なことは、素晴らしい物事、人と毎日のように接していると、

だんだん意識が同調してくることです。

もちろん、完全には難しいでしょうが、

だんだん余計なことをしなくなってきます。


素晴らしい人や物事だと、例えば聖書が1つの例です。

あるいは、興味のある分野の中で、この人のようになりたいと思えるような人を見つけて、

毎日見るのもいいですね。


毎日触れていると、雰囲気みたいなのがわかってきます。

そうすると、不要な物事には同調しづらくなります。



一方で、やる気が下がることはしないようにします。


ここで重要なのが、早い話不要と思うものはどんどん捨てることです。


捨てるといっても、物理的に捨てることだけを意味するわけではありません。

たとえば、ついついゲームをしてしまうのであれば、

ソフトを売り払ったり、アンインストールすることです。

あるいは、すぐ飽きてしまうゲームだけ残します。


どうでもいいようなものをネットで見てしまうのであれば、ブックマークから削除してしまいます。

もしかすると、削除したくないかもしれません。


でも、ストイックな人や素晴らしい人格者の話に毎日触れていると、

近いうちに削除しようと思える日がくるのではないかと思います。

そのときに、さっさと削除してしまいます。


音楽を聴くのであれば、できるだけやる気がでるような音楽を聴きます。

それは時に情熱的な曲かもしれませんが、

一方でモーツァルトやバッハなども聴くといいと思います。


何というか、宇宙と一体化できるような曲とかがいいと思います。

普通の曲だと、あまり努力する気にはなれないんじゃないかなと思います。

ましてやラップなんかだと、「Hey!Yo!」と同調してしまいます(笑)

これではサボってしまいかねません。

とはいえ、ほぼ問題なく努力できるのであれば別に何でも構いませんが。

大抵は、再現性に乏しく却って逆効果だったりします。

なので、聴く曲1つとっても、見直していきましょう。


これを聴くと無心になれるという感じの曲を、毎日聴きます。



こうして触れる情報をたくさん変えるだけでも、かなり違ってきます。

ただ、やはりちょっとゲームしてしまったりとか、

漫画を読んでしまったり、友達とダラダラしたり、

あるいはいろいろな話で盛り上がったりすると、また元に戻ってしまいやすいです。


とはいえ、毎日見ているのであれば、少しずつ変化はすると思います。


できるだけダラダラしてしまったり、サボってしまう要素をなくしていくことがいいです。

たったちょっとでもゲームをやると、ダラダラしてしまいやすいと気づくことができれば、

完全にやめることに近づけるようになると思います。


もちろん、たまには娯楽も良いと思いますけどね。



さて、それからプレッシャーを自分で設定していくことについて解説します。


プレッシャーの設定とは、

例えば勉強していきたいのであれば、資格試験や模擬試験に応募してしまいます。

ブログを始めて、惜しみなく公開してみてもいいかもしれません。

もちろん、講座に応募するの良いですが、講座の内容次第という点は注意です。


それから、日々の予定を埋めていきます。

これは、他人と接する予定です。

締め切りがないと、人はダラダラやってしまいます。

なので、人と会う時間を設定すると、緊張感が出てきます。


なにせ、自由に使える時間が減っていきますからね。

もちろんできるのであれば、他人と接さない内容でもいいです。

筋トレとか、予定をどんどん入れてもいいわけですが、

大抵サボってしまうので、他人と関与する方がいいです。


勉強であれば、もちろん勉強を他人にみてもらうような時間がいいです。

ただ、そうでなくとも、別の習い事とかでも忙しくなってくるので、

時間に緊張感がでてくるのではないかと思います。


毎朝1時間図書館やカフェに行って勉強するとかでもいいですね。

実際にはする気が起きないかもしれませんが、とにかく行くだけ行きます。



定期的に一人合宿とかしてみてもいいかもしれませんね。

もちろん、可能であれば他人がいたほうがいいかもしれませんが、

遊びになってしまうぐらいなら一人のほうがいいでしょう。


漫画喫茶で徹夜で勉強とか、可能ならどこかに宿泊してずっと努力し続けるとかですね。


いずれにしても自分を変えるには、できるできないを環境のせいにするよりも、

自分がこの環境を選んでいるんだという認識が重要かなと思います。


環境に支配されているわけではないはずなんです。

多くの人は、世間一般でいうとおりに行動しているだけかもしれません。

でもそれは、洗脳と言っても過言ではないでしょう。


このような行動様式では、自分の行動に責任を持つことができません。

他人の言うとおりにしていようといまいと、自分の人生における全ての責任は自分にあります。

全責任を自分で負うことが、トラブルの問題である依存を解消することにも繋がります。


これはこれで、かなり難しいことなんですが。

友達がいなかったり少なかったりで、悩む人がいると思います。


私は以前、友達というのは深い関係でないと意味がないと思っていました。

大体この考えは、中学~高校ぐらいですかね。

大学入る前ぐらいになると、過去問やノートなどの試験対策はあったほうがいいらしいので、

浅い関係は浅い関係で付き合えばいいと思うようになりました。


この流れは、他の人にも割とあるんじゃないかなと勝手に思っていたりします(笑)


ですが・・・・・・、最近1つ気づいたことがあります。

それは前回の記事とも重なるのですが、

そもそも友達との深い関係、いわゆる漫画であるような深い友情というものは、

ただの共依存に過ぎないのではないかということです。


依存的な関係は、トラブルの元にもなります。

もちろん、デメリットだけでなくそれ相応のメリットもあるわけです。

ただ、人間関係においてどんなに頑張っても、理解されたり理解したりすることは不可能だと思います。


一見信頼関係があるように思えるかもしれませんが、

実際には共依存なので、「なんで言ったとおりに行動してくれないんだ」といった不満が溢れてきます。

「これぐらい察してほしい」といった欲求も出てきます。


そういった関係よりは、会いたいときに会い、純粋に時間を楽しんで、

無意味に会ったりはしない関係のほうが、

むしろ友達と言えるんじゃないかなと思います。

相手の意見や決断、価値観などを尊重しあえる感じですね。


依存という観点に立つと、多くの友人関係というのは、ただの依存かなと思います。

でも、前回の記事で書いてますが、依存を愛だと思い込んでいる人が結構多いように思えます。

いわゆるダメ男に貢ぐ女といったあからさまな構図ではありませんが、

本質的には一緒に思えます。

もちろん、依存したり共依存したりするのは、人の自由ですけどね。


そういう意味では、友達が少ない人というのは、依存に過ぎないという本質に無意識的に気づいているのではないかなと思います。

お互いを尊重し合えない関係であれば、そもそも友達として維持する意味はないでしょう。

なかなかこういった関係をつくるのは難しいですけどね。


人間関係が深まっていくと、依存的になりやすいです。

そのうち、共依存を強化することが人間関係を深めることと勘違いしてしまいます。

そこが注意ですね。


人間関係がどんなに深まっても、相手に依存せず精神的自立を前提として接することが大事かなと思います。

もしかすると、この前提ではそもそも大して深まらないかもしれませんが、

精神的には充実していると思います。


とはいえ、人間ですから、現実には精神的に全く依存しないことはほぼ不可能でしょう。

多少依存しあうことが、そもそも友達として前提なのかもしれません。

ただ、依存するということは依存しないという精神的自立を前提として行われることが必要です。


友達すなわち依存し合う関係がほしいというのであれば、それはそれでその人の自由です。

依存的な関係は望まないのであれば、友達がいないとか少ないことで、悩むことはナンセンスと思います。



最近気づいたのですが、世の中の多くの問題、トラブルに共通した原因があります。

それが依存であるとわかりました。


普遍性という観点から世の中を見ると、依存というものはあまり出てきません。

普遍性という見方では、依存という概念は個別具体的すぎるからです。


世の中の問題の多くは、欲望とか邪心が原因とされると思います。

もちろん、それらも問題です。

それらも含んだ上でさらに超えた観点が、依存です。

邪心も欲望も、依存の一種です。


一般には、「他人には期待するな」と言われます。

この期待も依存です。


なぜ人は感謝するのでしょうか。

それは依存しているからです。

あって当たり前の物事に、人は感謝をしません。


ですが、あって当たり前ということはつまり依存しているということです。

依存していることに感謝すると、精神的に依存ではなくなります。

なぜなら、感謝することはあることが当たり前でないことを認めることだからです。


以前にも書きましたが、依存と認めること自体が、精神的には依存でなくなり始めるのです。


信念も依存の一種です。

思考も、イメージも、感情も依存であり、そして依存が原因です。

こうした依存という観点に立つと、結婚も依存まみれであることに気づきます。


察してほしいをやめれば、夫婦喧嘩の八割は減るという意見もあるみたいです。

もちろん、この察してほしいも依存です。

ちゃんと、思っていることは表明しましょう。


同時に、思っていることを口にしないほうが悪いと思わず、

できるだけ口に出してもらうように努めてみましょう。

そうすると、依存性が薄れていきます。


依存が愛であると勘違いした結婚は、

問題が起こりやすいでしょう。

依存や執着は、あらゆるトラブルを引き起こします。


あっちが得かこっちが得かといった悩みも、依存が原因です。

変化を避けてしまうのも、依存が原因です。

世間体を気にするのも、人の意見に左右されるのも依存が原因です。


他人が思うように動いてくれないというのも、依存が原因です。

死が怖いのも、依存が原因です。

諸問題を社会や他人のせいにするのも、依存が原因です。


では、この依存はどうすればいいのでしょうか。

それが、感謝です。

感謝が第一歩です。


感謝をすればするほど、依存していることに気づきます。

まさに気づきがなければ、依存の問題が解決することはありません。
菜食をしている人は、ついつい肉食を批判してしまいがちです。

「菜食している私は偉い」

みたいになってしまうのだと思います。


しかし、それでは肉食動物の存在を否定してしまいます。

動物保護のために菜食していても、結局動物を否定してしまうわけです。

菜食主義になってしまうと、よくないと思います。

菜食していようがいまいが、人は人ですからね。


さて、その上で菜食に対して肉食を正当化したいのかわかりませんが、

「植物だって生きているのに、動物とどう違うのか」

という反論がよくされます。


しかし、これはもっと根本的に冷静に考えればわかることだと思うんです。

この答えは、何と言っても「痛覚や感情がない」ということに尽きるでしょう。

もうこれが、本質的な答えでしょう。


人間の体で例えれば、肉食とは言わずもがな人肉を食べることです。

ですが、菜食は爪や髪の毛を食べることに等しいです。

痛覚がなく、かつまた生えてくるという点が非常に重要です。

自分の肉と髪の毛どちらを食べられる方がマシかなんて、答えるまでもありませんよね。


植物というのはそういうものなんですね。

むしろ、地球の生物のためにサポートしている存在といっても良いぐらいじゃないでしょうか。

植物と人間の関係には、共生してると言っていい部分がありますからね。


また、痛みがないというたった一点だけでも、大きく異なってきます。

特に、物理的な痛みだけでなく、精神的な痛みがないことも重要です。


果実をもぎとっても、その木にはまた実が成ります。

確かに動物を食べても、また赤ちゃんを産ませればいいです。

しかし、一緒に生活をしてきた家族がいなくなってしまう悲しさや痛みが、

動物にはあります。


知能が低いとあまりないかもしれませんけど。

いずれにしても、菜食をするに越したことはないと思います。


肉食をするのであれば、動物の命を犠牲にしていることを認識したうえで、「いただく」ことが重要と思います。


私は食べる前に、

どういった動物でどういった環境でどういう風に過ごしてきたのかというのを想像します。

もちろん、そんなのはほとんど妄想の領域です。


ただ、私はこういうことをしないと、命を犠牲にしていることを忘れそうになってしまうのです。