しばしば見られる「無知は罪」という文言、果たして本当でしょうか。

まず言うまでもないことですが、無知は罪というのは一種の例えでしょう。

知ってさえいればよりよい選択をすることができたということですね。

これによって、時には人の命を救えることもあります。



もちろん、これはこれで一理あるでしょう。

ただ一方で、人間は全知ではない上に全知になることもできません。

少なくとも現状では、できていません。

つまり、罪をすべて消すことはできないでしょう。

全員有罪ということになりますね(笑)

原罪の1つの解釈という見方もできるかもしれません。



更に、無知が罪であるならば、

相手が無知であることを知らないのも罪ということになります。

相手が知らなかったことだけでなく、相手が知らなかったことを知らなかったことも罪になります。

ですが、「相手が知らないということ」を知ることができるのは、

相手が知らなかったときです。

なんということでしょう(笑)



その上、

「私は相手が知らなかったことを知らなかった」ということを知らなかった他人も罪になりますね。

ループします。

もうこれは、人類全員が最高級の罪を犯しているとしか言いようがないことになります
(笑)




冗談はさておき、冒頭の通り、「無知は罪」は一種の例えです。

知る努力を促すためのものでしょう。

しかし、すべてどころか多くのことを人は知ることもできずに寿命を終えます。



また、無知である相手を責めることも一方的であることに注意しましょう。

相手が無知であることを知らなかったとしたら、

それも一種の罪なのですから一方的に責めるべきではありません。



しかし、このように知るというのはとても難しいのです。

相手が知っているかどうかなんて、確認しない限り知りようがありませんからね。

全部の知識を確認なんてムリですよね。

相手が知らなかったことや知っていることを、たくさん知ることは頑張ればできますけど。

でも、やはり事前に知るというのは難しいですね。

そこで、確実に罪を軽くすることができる方法が実はあります。



それがまさに無知の知なのです。



「無知の知」であるとき、「無知の無知」よりも罪が軽くなることは明らかでしょう。

これは、例えるなら「この分野の知識はない」ということを自覚することですね。




さらに、「無知の無知の知」もあります。

意外とこれは盲点だと思います。

これはどこがわからないかがわからないということを自覚することですね。

「何の知識がないのかがわからない」ということを自覚することです。

イメージ的には、赤ちゃんが自分には何の知識もないことを自覚する感じですね。

恐ろしい赤ちゃんですが(笑)



これはちょっと難しいかもしれないです。

抽象性がちょっと高い思考なんだと思います。

もちろん、自覚したからといってすぐに知識がわかるようになるわけでもないですが。



まぁメタ認知ですね。

ただ、自覚するというのはかなり重要なことだと思います。

どこでもいいので、最終的には知が入るのが重要です。

無知の無知の無知の~といったように、無知がループするのが問題ですからね。



どこかに知を入れ自覚することが、罪を軽減するコツというですね。
本当の愛が理由じゃない結婚って、とても不幸になりやすいと思うんですよね。

世間体とか、孤独感みたいなのももちろんそうなんですが、

なんといっても「結婚は幸せ」というイメージそのものが、

結婚をする理由になっている気がします。


結婚そのものを目的とした結婚は、結婚してからが一番大変ですよね。

結婚するまでは幸せでしょうけど。

特に子供ができてからが大変ですね。


結婚におけるリスクっていうのは、かなり広く果てしなく、あらゆる可能性があるものです。

将来の日本はどうなるかという不安定な部分がまずあります。

不景気だとか、金融危機だとか、(日本で)食料や水が不足するかもしれません。

仕事がクビになったり、収入が激減したり、浮気などの離婚、自然災害、事件事故などがありえます。

結婚すると、自分だけでなく相手および相手の家族までが問題の範囲になります。

さらに近所トラブルなんかもあるかもしれません。

トラブルはむしろ増えると考えるべきでしょう。



さらに子供を産む場合にも、様々なリスクを認識しておくべきです。

障害者や病気をもって生まれるかもしれません。あるいは成長途中で障害や病気を負うかもしれません。

勉強が全くできない子かもしれません。

将来ニートあるいは不良になるかもしれません。

魔が差したにせよ犯罪をするかもしれません。

前述した、仕事がクビになり収入がほぼなくなり子供が飢えるといったように複合することもありえるでしょう。



こういったことまでを考えると、結婚が幸せというのは幻想に過ぎないと思います。

でもこのような様々なリスクを考えても結婚をしたり子供を授かったりするのは、

本能であったり、使命感であったり、あるいは寂しさがあるからでしょう。


なので、理性で徹底的に妥協することなく検討することが大事だと思います。

その上で、リスクを負う覚悟をしてから結婚するなりなんなりしたほうがいいのでしょう。

人間は空気(酸素)がないと生きていけません。

人間は水がないと生きていけません。

人間は大地がないと生きていけません。



人は、物理的には誰もが依存をしています。

なので、水とか、大地とか、命ある食べ物に感謝をします。

この依存は、基本的に避けることはできません。

物理的依存からは誰も逃れることはできません。

つまり、物理的に完全な自立は不可能ということですね。





経済的依存における自立も、根本的には不可能です。

経済的依存とは、生活を旦那に依存する主婦がわかりやすいですね。

しかし、これは究極的には、労働者にとっても今している仕事に依存するとか、
他人(お客さん、取引先など)に依存するとかで、結局経済的な依存が成立します。

経済的依存も、自立は不可能ということになります。

ですから、複数の収入にするっていうのがリスクヘッジになるわけですが。



よって、経済的に何か(あるいは誰か)に依存せざるを得ないので、

常に経済的な不安が出てくる可能性があります。

クビになったらどうしよう、就職できなかったらどうしよう、この契約が打ち切られたらどうしよう、

年金が途絶えたらどうしよう、離婚になったらどうしようといった感じですね。



結局人間は、物理的に依存するしかありませんよね。

そしてこの物理と関係性をもって経済も成立しています。

なので、物理的にも経済的にも依存するのはしょうがないことです。





3つの依存の中で、唯一精神的な依存は自立が可能です。

あの人がいないとだめとか、誰かに頼られないと不安だとか、

こういったものは精神依存ですね。

依存されることに依存するといった共依存もあります。


本質的な自立とは、まさに精神の部分によって行われうるということです。

自立という言い方がそもそも適しているかわかりませんが、

何事にも依存しないということですね。

生きていることに執着しない、何らかの生き方に執着しないということです。



生きていることや他人、自然などに感謝するということは、

物理的・経済的依存を認めることです。

これは一見かなり不安感があります。

食べ物がなかったら、酸素がなかったら、、水がなかったらということを想起させますからね。

でも、こういった依存を認めることこそが、

精神的には自立につながるのだと思います。

以前ネット上で、

「経済力がないのになんで子供産んだの?」

ということを、子供が親に言ったという話が載ってました。

父親が怒ってぶん殴ったみたいです。

実際には、いろいろ事情があったみたいで、引き取らざるを得なかった感じの話だったと思います。


今回の話で取り上げたいのは、

「経済力がないのになんで子供産んだの?」

ということを子供がいうことに関してです。


字面だけ見れば、結構生意気な感じですね。

実際子育ては大変でしょうから、イラッとくるのは当然です。

怒りに身を任せるのはともかくとして、

少なくとも怒っているということは表現していいと思います。


ただ、なぜ子供がこういうことを言うのか、については考慮の余地があるでしょう。

こういったことを思うのは、意外とあるものだと勝手に思ってます。

なんでこんなことを思うのかというと、要するにこれは罪悪感なんです。


子供ってのは、経済的には何の役にも立たず、ただただ消費するだけの存在です。

子供自身が一番それをよくわかっているんですよね。

そうすると、子供は自分なんて無意味、無価値って思うことがあります。

人間は存在するだけで価値があると思える子であれば、話は別ですが、

なかなかそこまでの子は少ないでしょう。


自分は無意味、無価値という感じが罪悪感になります。

そうすると、自分はわるくないということを確認したくなるんですね。

子供なんてそもそもそういうものですから。

そうすると、経済力がないのにただただ消費するしかない子供を産む方が悪いと責任転嫁したくなるのです。

それで、冒頭の発言になったのだと思います。


要するに、愛を求めていただけだと思うんですよね。

何が悲しくて、自分の存在を否定することを言えるでしょうか。

経済力がない家庭では、自分は邪魔でしかないという思いがあったんじゃないかと思います。

まぁもしかすると、単純に金持ちが羨ましかっただけかもしれませんが。


ただ、殴られて怒られながら説明聞いたら、号泣したようです。

やっぱり、罪悪感あたりが根底にあったんじゃないかなぁと思います。

じゃないと、号泣したりはしないと思うんですよね。


子供ってのは良くも悪くも純粋なので、その辺がまた難しいですね。

殴った人も、罪悪感をわかった上でぶん殴ったのかもしれないですが。
嫌われることを受け入れることは、とても人間関係においては大事なんだと思います。

依存によって恐怖が生じるとすれば、好かれるか嫌われるか気にしないということが、

人間関係における健全な状態なのでしょう。



もちろん、実際に嫌われたら支障が出ることもあるでしょうが、

嫌われる前から嫌われることを意識しない方がいいということですね。



人と人なんて、嫌われることは普通のことで当たり前です。

これを受け入れられると、楽になるんだと思います。


嫌われる覚悟というのは、もっと進んだ状態ですね。

覚悟が必要というぐらいですから、前提として悪くない人間関係があることになります。

恋人とか、親友とか、家族とかですね。

そういう関係の中で、相手のためや自分のために嫌われる覚悟で何か言う必要がある場合には、

嫌われる覚悟をすることが重要でしょう。

通常の人間関係では、嫌われる覚悟ってほどのものは不要でしょう。

リスクヘッジが必要な場合はあるかもしれませんが。




今回の話は、気を遣いすぎる人とも関係があると思います。

気を遣いすぎる人においては、嫌われることを恐れている人が多いんじゃないかと思います。

相手のニーズに答えようとしているにしても、自分が嫌われることを恐れているにしても、

気にしすぎると気を遣いすぎてうまくいきづらいでしょう。



以前の記事で、気の遣い方をうまくしましょうということを書いたと思うのですが、

まさに今回の話にも通じるものがあります。



嫌われるということに、あまりきづいていないというか、鈍感な人がいます。

ただ気づきたくなくて見てないだけかもしれませんが。

「気を遣うことによって、相手に気を遣わせている」とか言う人はまさにそうなんじゃないかと思います。

これはただ単に自分が気を遣いたくだけでしょう。

重要なのは、気の遣い方がうまければかなりスムーズに話が進むということですね。



嫌われているというのをわかった上で、コミュニケーションをとれるかどうかが重要なのだと思います。

嫌われているのを気づかないフリしたり、あるいは本当に気づいていないというのは、

ただ単に鈍感なだけです。


嫌われていることをわかった上でコミュニケーションをするというのが、

一種の気の遣い方って感じでしょうか。



嫌われたら普通反発しますが、そこで気を遣ってスムーズにコミュニケーションを進めようとするわけですね。

まぁこれはかなり高度な気がしますが・・・。