自己受容と存在意義とアイデンティティ | パート主婦の生き方

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浮かんでは消えて行く思索の記録

自分の才能や能力を発揮できていないと感じている人は無力感にさいなまれ、なかなか自己受容ができない。

 

ありのままの自分を受け入れられた事がない人、世間から良い反応を受けとれない人、無能だ・役に立たないと言われ続けた人、人生思うようにいかなかった人にとって、「ありのままの自分が好き」とどうして受け入れることができるだろうか。

 

無条件に自己を受容することは難航を極める。自己受容は自分が何者であるか、アイデンティティ確立のプロセスでもあるからだ。

自分の「ない」面に目がいき、ずっと人に認めてもらいたい、必要とされたい、自分の才能を発揮したい、という欲求を持ち続けてしまう。いわゆる承認欲求である。

 

その欲求は煩悩なのか、諦めが悪いのか、それとも自分が輝ける方法なのか。

 

前:「社会のために貢献したい、この世界をよくたい、人を喜ばせたい。」という気持ちは裏を返せば、

「自分は価値のある人間だ。」と思えることだ。

 

後:「自分の幸せのために好きなことをすればいい。」

という気持ちとも両立可能だ。

 

諦めることはいつでもできるから、もう少しチャレンジをして楽しむことも可能だ。

 

しかし報われない努力と自分の無力感から前者を無意味に感じたら、前者と後者を切り離して、努力とか自己投資をやめて、「今ここ」にある関わりを大切にする生き方にシフトすることも可能だ。

 

詰まるところ、自己受容においては、

「最後には自分で自分を承認できるか。」

「社会の役に立てなくても、そんな自分でもいいと思えるか。」

ということが論点になる。

 

現在自分の才能を発揮して何らかの形で社会に貢献できている人、自分の存在意義を見つけた人、自分に好きなところがある人、無条件に愛してくれる人がいる人には浮かばない疑問かもしれない。

 

いつか老衰や病気、事故などで才能を発揮できなくなる時が来るだろう。その時、自分の存在意義を失って絶望する人もいるかもしれないし、過去を思い返して幸せな気分になるかもしれない。違いは何だろう?

 

どうすれば自己を受容できるのか。

自分の中に何らかの「好き」や「価値」を認めて、それを愛する。自分には全く存在意義がないと思う人もいるかもしれないが、謙虚になって些細なことに目を向け自分にできる事を始めてみよう。無力感こそ煩悩であり自分には何もない、何もできない、というのは幻想なのだ。