私は遺伝的に見ても神経症体質ですが、幸福感を保ち続ける方法を知っていると思っています。一時的にネガティブな状況に陥っても、回復する方法を知っていると思っています。
私にとっての不幸とは、精神的苦痛のことです。
私が不幸になることはできるでしょうか。
そう考えると、ありとあらゆる不確実性の中に私の不幸は潜んでいるように思われます。
不慮の事故・病気・天災・犯罪・悪意のある人からの攻撃。云々。
心を許すとその隙間からじわじわと染み入ってきそうな不安や恐れや慄き。
どんな困難な状況に陥っても、私が私の精神をコントロールできる限りは大丈夫です。何らかのストレスを受け続けることは、心のコントロール能力を枯渇させます。(困難な状況を避けるのも手です。)時には「もうあかん。」と思うこともありえそうです。(寝るに限ります。)
私は幸福感、精神の安定を保つために常にそのような不確実性と戦っていると言えます。
思えば人が記憶力を手に入れ、そこに解釈を書き込む余地を得たことが、人の不幸、苦悩の始まりのようにも思えます。
記憶力を手に入れたことで、ありとあらゆる生存危機的状況のデータに持っているわけですから。そしてそれは警鐘として恣意的思考に浮上します。
しかし今となっては天空の城のラピュタの1ゼリフ、「いいまじないに力を与えるには、悪い言葉も知らなければいけないって。」の意味がよくわかります。
記憶力がなければ、瞬間瞬間の不快・快を感じるだけの存在です。不快・快に解釈をつけて覚えているからこそ、その対照の存在も知ることができる。喜びを知っているからこそ、それを失う苦痛をも知ることができる。
記憶力があるからこそ、私たちはどのような状況に陥っても自身の解釈の中から、喜びや幸福感というものを浮上させることができます。
さて、私が不幸になることができるか、の疑問はやはりその状況に陥らないとわからないのですが、私の解釈に敢えてアクセスしないこと、”今ここ”を生きること、そこに感謝の念を据え置くことで、幸福感を維持できています。
”私”という存在は遺伝と環境の相互作用なのですから、どの環境に身を置くかは自身の幸福感にとってとても重要な要素です。