道具としての言葉 | パート主婦の生き方

パート主婦の生き方

浮かんでは消えて行く思索の記録

「言葉」は情報を媒介するものです。

物理的には特定の音や光、物質の形態(厳密に言うと、空気の振動や電磁波の波長が感覚器を介して神経細胞の発火パターンに変換されること)が受け手にとって「意味」を持つ情報になるものです。

 

周知の通り、1つの言葉にはたくさんの「意味」があったり、人によって違う「意味」があったりします。その「意味」は主に、周りの人間が話す「言葉」と「状況」から得られます。1つの言葉には多面的な「状況」や「関係」が含蓄されています。一言で言い表せないものを一言にしてしまった、とでも言えるでしょう。

 

「言葉」は必要性から生まれた「コミュニケーション」の「道具」であると考えます。相手の意図を汲むことも含め、意思疎通が「ある程度」図れていれば、その役割を果たしていることになります。「コミュニケーション」においては「言葉」だけでなく、その時の状況や相手の表情や仕草など他の視覚情報が助けになります。

 

また「言葉」には目に見えない、感じられないけど「存在するもの」を間接的に「わかる」形に変換する役割もあります。効率とか機能とか目的とか。実存しなくても人間が区別できるものは少なくとも人の心の中に「存在する」と言えますが、人間が区別できるもの全てに言葉がついている訳ではありません。

 

幼児期において言葉の発達が外言から内言へと進むように、進化においてもコミュニケーションの「道具」から、想像・創造する思考の「道具」へと発達していったと考えられます。

 

「言葉」は道具ですから、「精度」があります。

「言葉の精度」によって出来上がるコミュニケーションの「質」は異なります。

 

「質」の低いコミュニケーションとは、発し手と受け手の間で意味が取り違われることで起こります。歯車が噛み合わない状態です。抽象的で多義的な「言葉」を多用したコミュニケーションは「精度」が低い傾向にあります。逆に科学で使われる言語や媒体のコミュニケーション精度は高いです。

 

情報を媒介する「道具」は「言葉」による文字や音声だけではありません。写真や映像、数字や論理記号、プログラミング言語などがあります。

 

科学用語や記号、数字、プログラム言語の定義・意味は明確であり、それら情報を媒介する「道具」を「精密化」していくことで科学は発展してきました。

 

「言葉」には球体の一点をなぞっていくような、もどかしさがあります。「百聞は一見に如かず」と言いますし。

有限な私たちには存在の全てを知る時間もなければ、全てを知ること自体に意味を見出しません。

私たちが生きるに足る情報を取捨選択しています。

 

私からすると「言葉」とはなんと頼りない情報媒体だと思います。しかし人の共通言語がプログラミング言語になってしまうと、正確で誤解を生まないコミュニケーションができるかもしれませんが、それはそれで弊害がある、というか量が膨大になって効率が悪いのだと思います。「言葉」の「幅を持たせる柔軟な性質」が遊び心や想像心をくすぐり、人間の脳には最適なのかもしれません。コンピューターにはない人間の脳が持つ柔軟で多角的な視点とはそういう事なのだと思います。

 

「言葉」は人同士のコミュニケーションや学習において最も使われる情報媒体です。私たちはそれらがその「道具」としての役割をはたしているか常に吟味しなければなりません。