新田義貞の側室・妙貞尼の墓-早川散策の途中で | 千釣休の一魚一絵

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子供のころから、鮎釣りを楽しんで、友釣りも始めました。中学生のときには、鮎漁師とも仲良くなって、オトリを貸してもらったりしました。

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2月15日(水) 曇
 
前から気になっていた。国道1号線が渋滞したとき、小田原方面から風祭まで山越えの抜け道を登って、下りに入ったところで見る看板だ。
新田義貞は、鎌倉幕府末期において鎌倉攻めを行い、その際、七里ガ浜に剣を投じ、海岸の海を引かせて進軍の道をつくり、鎌倉幕府を滅ぼした伝説の名将だ。
確か足利氏に箱根山中で敗北し、討ち取られたという。だから、その側室の墓が小田原(当時は箱根山中)にあっても不思議ではない。
 
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場所は、小田原市風祭。カマボコで有名な鈴広のカマボコ博物館やドライブインがある地域だ。この風祭という地名。なにやら曰くありそうではないか。
忍者映画などで聞き覚えのある風魔一族。これは小田原北条家の忍者部隊である。ここ風祭は、その一族の根城であったと聞いたことがある。箱根山中を拠点としたとされるが、今は国道一号線の沿線沿いで、コンビにはもちろんファミレスが立ち並ぶ、そこそこ開けた街道沿いだ。豊臣や徳川の忍者群に対し、悪役とされる風魔一族ではあるが、歴史の傍流になっただけで、決して悪者ではないのだろう。
その意味で、南北朝の時代に南朝に組し、北朝を支えた足利氏に征伐された新田義貞は、やはり傍流として、歴史の主流からしいたげられた。でも、歌に歌われるほど、何かしら魅力のある人物ではある。
 
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入口は道とも呼べない、みかん畑の側道だった。半信半疑ながら、歩いていく。
 
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本当に、こんなところに墓があるのだろうか?
 
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右手の奥になにやら看板らしきものが見える。ともかくも、そこまで歩いてみよう。
 
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やはり看板であった。それにしても、踏み跡もなく、ここまで到達するには、かなりの根気が必要だ。
 
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これが新田義貞の側室・妙貞尼の墓である。
墓誌があるので、それを見てみる。どうやら、側室の子孫の群馬県の方が寄進したようだ。
 
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原澤一郎と読める。どうやら墓の主の末裔のようだ。
群馬県の方のようで、清和源氏の新田義貞も足利義満とならんで、群馬方面の出自だったと聞く。
ところで、新田義貞本人の墓や正室の墓はどこにあるんだろう。どなたかご存知ありませんか?
ここまで来たら、汗だくになってしまった。ハンカチを探したら、無い。仕方がないので、カメラ・レンズ用ダスターで汗をぬぐってしまった(^_^;)
 
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