広島平和記念資料館の軌跡13 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 1945年9月になって文部省学術研究会議に「原子爆弾災害調査研究特別委員会」が設置され、すぐに広島・長崎に調査団が派遣された。この時、東京帝国大学の渡辺武男教授をリーダーとする地質グループの5人のメンバーの中に長岡省吾さんが入っている。渡辺教授らが広島市に入ったのは10月11日で、13日までのわずか三日間の調査だったから、長岡さんが市内の見るべき場所を案内してまわったのではなかろうか。

 調査初日の11日に渡辺教授は爆心地の島病院の焼け跡で表面が熱線で溶けた瓦を拾い、そしてすぐそばの清(せい)病院では塀の上部に据えられた鉄平石(安山岩)に注目している。

 

 変化した安山岩が観察されたのは、清病院(29N80m)のみであった。この石材は塀の上面に水平に並べられていた複輝石安山岩で、熱をほぼ真上から受けている。大きさ数ミリの、黒色の熔融ガラス質の塊が点々と表面に盛り上がっているのが肉眼で認められた。顕微鏡で調べると熔融が認められた部分は無色又は褐色のガラス質で、多くの気泡状の孔が存在し、中には融けのこった結晶等が認められる。熔融現象は石のごく表面においてのみ行われている。(田賀井篤平編『石の記憶—ヒロシマ・ナガサキ 被爆試料に注がれた科学者の目』智書房2007)

 

 平和記念資料館に寄贈された長岡さん収集の資料の中にも鉄平石がある。鉄平石は広島では珍しいので、おそらく清病院の塀にあったものだろう。10月11日に採集したのか、それともそれ以前に見つけていたのかは不明だ。とにかく、爆心直下で地表がどれだけ熱せられたのかを示す貴重な記録となった。

 地質グループは石などに熱線で焼き付けられた「影」から、原爆の爆発点(「爆心」)の高度や、その真下にあたる爆心地の方向の特定も行っている。渡辺教授のノートには、護国神社の石灯籠に焼きついた影(熱線が当たった場所は石が薄く剥ぎ取られたようになって白くなり、何かの影になって熱線が当たらなかったところはそのままなので、影が焼きついたように見える)を観察して、「カゲdip62° 方向N-S, N10°W」と鉛筆書きされている。(『石の記憶—ヒロシマ・ナガサキ 被爆試料に注がれた科学者の目』)

 原爆の熱線の跡は広島のいたるところに残されていた。その「影」からは、一瞬にして焼かれた人たちの悲痛な叫び声も聞こえてきそうだった。渡辺教授は次のように回想している。

 

 町の建物の上や石段には、そのときすわっていた人々の影がたくさん残っていた。舗装された道路のタールの上や敷石の上にも、爆発の瞬間の状態がそのままやきつけられていた。

 とくに爆心から950m、県庁の横の万代橋には、往来していた人々の姿がなまなましく焼きこまれていた。自転車に乗った人、歩いていた人々のかげも濃く、その人たちが大火傷を負った当時の悲惨なようすを想像し、思わずゾッとしたのを今も忘れることはできない。(渡辺武男「石の上の影」仁科記念財団『原子爆弾 広島・長崎の写真と記録 出版前の広告パンフレット』光風社1973)