現在、広島の爆心地と推定されているのは、当時の島病院の中庭で、現在は島内科医院南隣の立体駐車場の出入り口あたりだ。(「中国新聞」2020.10.11)
原爆が人に直接浴びせた放射線の量を推定するためには爆心地の位置をピンポイントで決めなければならない。そうすることの意義はあるだろう。けれど原爆のさく裂によって生じた火球は、さく裂から1秒後に半径140mに最大化したと見られている(朝長万左男他「核兵器使用の多方面における影響に関する調査研究」2014)。であれば、強烈な放射線、熱線、衝撃波を放出した火球の真下が爆心地だと考えることもできるのではなかろうか。
島病院を中心にした半径140mの園内には、現在の原爆ドームや元安橋が入る。そこを爆心地と言っても違和感はないだろう。一方、東側ではエディオンの本店やイベントスペースの「ひろしまゲートパーク」まで爆心地に入るというのは実感しづらいかもしれない。まして、平和公園を出てすぐのアイスクリームを舐めたりお好み焼きをぱくついている場所が、かつては白骨や黒焦げの遺体が転がっていたと誰が想像できるだろうか。しかし6日は市外にいて助かった人が証言している。「7日に入るとまだ熱く、通りには黒焦げになった中学生や馬の死体がありました。実家跡にあった骨を拾い、陶器のかめに納めました」と。(中国新聞「ヒロシマの記録-遺影は語る 細工町」2000.2.21)
広島逓信病院の蜂谷道彦院長が爆心地を訪ねたのは9月23日。
相生橋を渡る。爆心地だ。広島郵便局の瓦壊へ到着。全職員玉砕した墓標の前にひざまずき心からなる祈りをささげた。しばらく焼け跡をうろつき懐旧久しきものがあった。郵便局の近くで開業しておられ、たまたま当日不在であった島先生の幸運を祝し、亡くなられた黒川先生、田中先生の不運を思い、日ごろ、私を可愛がっていただいた両先輩の在りし日の面影を偲び思いあまるものがあった。(蜂谷道彦『ヒロシマ日記』朝日新聞社1955)
9月23日は8月6日に亡くなった人の四十九日(満中陰)だ。その日、爆心地でどれだけの人が親しかった人を悼んだろうか。いや悼むことができただろうか。
原民喜は小説「廃墟から」の中に、原家の工場に動員された西高等女学校の生徒を引率し、原爆で消息不明となったT先生の思い出を書き留めている。
女の子は時々、花など持つて来ることがあつた。事務室の机にも活けられたし、先生の卓上にも置かれた。工場が退けて生徒達がぞろぞろ表の方へ引上げ、路上に整列すると、T先生はいつも少し離れた処から監督してゐた。先生の掌には花の包みがあり、身嗜のいい、小柄な姿は凜としたものがあつた。もし彼女が途中で遭難してゐるとすれば、あの沢山の重傷者の顔と同じやうに、想つても、ぞつとするやうな姿に変り果てたことだらう。(原民喜「廃墟から」1947)
T先生のモデルとなったのは細工町の西向寺に暮らしていた高松公子さん。その面影は今小説の中でしか知ることができない。爆心地では、亡くなった人の面影までもかき消されているようだ。