正田篠枝の1945年43 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 正田篠枝さんは広島で生き残った人たちのそれからの苦しみも歌に詠んでいる。

 

 七人の子と夫とを火焔の中に残してひとり生くるをみなのまなこ

 ただひとり命を拾ひてむなしくをみな今日はも泣きて夕とはなる

 狂ひしか吾子が欲しい結婚がしたいと五十近きをみな口紅をつけ

 (正田篠枝「唉! 原子爆弾」1946『さんげ 復刻版』)

 

 「をみな」(嫗 年配の女性)という言い方からか、人から間接的に聞いた話のような気がする。1962年出版の『耳鳴り』には自分の歌についての解説もあるのだが、この歌についての補足はなく詳しいことはわからない。

 原爆で夫をなくした人、妻を失った人、我が子を奪われ親を奪われた人は数知れない。その中には正気を失った人がいても不思議ではなかろう。正田篠枝さんの知った人では中学1年の我が子を失った藤沢イチノさんがそうだった。夜中になるといつの間にか寝床から抜けでて焼け野原をさまよい我が子を探し求めたのだ。原爆から20年という年に中国新聞が話を聞いてまわった中にも、自分はしばらくの間気が違っていたと語る人がいた。

 桑原ハナさんの長男で中学1年だった常次郎さんは、鶴見橋付近の建物疎開作業に出たまま帰ってこなかった。ハナさんは6日の夕方から昼も夜もなく広島中を捜して歩いた。

 

 「あのときは気が狂うて、十三、四歳の男の子でさえありゃあ、死体をひっくり返してみたんです。気違いになっても、バンドを調べることだけはわかりましたです。黒こげなった死体でも不思議にバンドだけは残っておりました。毎日、毎日死体を荒らしたのと、その手で水を飲んだことしかおぼえておりませんのです」(中国新聞社『証言は消えない——広島の記録I』未来社1966)

 

 一か月くらいして似島の臨時救護所に常次郎さんに似た名前が張り出してあるとの知らせがあった。島に渡ったハナさんがただ一つ手にすることができたのは我が子の布製の財布。遺骨も遺灰も持ち帰ることはできなかった。

 常次郎さんが亡くなったのは8月9日のこと。すぐにでも似島に渡っていたらとハナさんは悔やんだのではなかろうか。

 

 ハナさんは気が狂った。朝から晩まで仏壇の前にすわりっぱなし、わが子の名を呼んではブツブツとかきくどいた。疲れて寝たかと思うと、深夜起き出しては仏壇の前にすわる。「苦しかったろう、熱かったろう」「おかあさんが悪かった。死にたい、死にたい」とひとりごとを言う。狂気が癒えたのは、十月の末だった。(『証言は消えない——広島の記録I』)

 

 辛いのは自分だけではないと知ってようやく諦めがついた。

 中国新聞の取材に応じた1965年当時、ハナさんは67歳。ひとりバラックに住み失業対策事業で働いていた。訴えたいことがいっぱいあっても、日々食べていくのが精一杯でなかなか訴える機会もない。また取材に応じて新聞に写真でも載れば、自分だけ同情されているという周囲の妬みも心配しなければならなかった。しかしその一方で、アメリカや日本の政府は、子を失った親の悲しみなどには見向きもしない。ハナさんは広島でひとり葛藤するのだった。