8月26日午後に小林さんの遺体の解剖が始まった。
肝臓は暗褐色で鬱血、その表面のところどころに出血斑がある。胃腸は血管が拡張して肝臓同様粘膜下に出血斑があった。胃腸を取り出すと腸骨動脈の付近に大量の腹膜下出血があった。(中略)
私は死体解剖をみて痛んだゆえんがわかった。胃腸や肝臓腹膜の粘膜下出血斑をみて、斑点は体の表面ばかりではない、五臓六腑身体中どこでもでていることがわかった。私は解剖を見学して恐るべきは斑点だ、斑点が体の中の主要部へただ一個できても最後だと思った。(蜂谷道彦『ヒロシマ日記』平和文庫2010)
放射線で骨髄の細胞がやられて赤血球が減ったら貧血になり、白血球が減ったために感染症にかかったら高熱が出るし、傷口からはいつまでも膿が出る。そして血小板が減ると大変だ。放射線に傷ついた鼻、歯茎、喉、胃、腸など身体中の粘膜がただれ、ひどければ壊死する。そうなれば血小板が少ないので血が止まらなくなってしまう。
広島市の北の郊外にある戸坂(へさか)で当時軍医として救護にあたっていた肥田舜太郎さんがこう記している。
線路沿いに歩いて数軒の農家を廻り、本部へ帰りかけた後を飛ぶように衛生兵が追ってきた。
「大変です、○○が下血しました」
熱発して紫斑の出ていた若い兵と知ってすぐ引き返した。
ふとんから畳にかけての血の海の中で何が苦しいのか患者はもがき苦しんでいる。血液は下血ばかりでなく眼尻からも鼻からも口内からも吹き出していた。何が起ったというのだろう。苦しまぎれに手をあげたその掌の下で患者の五分刈りの髪の毛がまるで掃き落としたように脱け落ちた。聞いたことも見たこともない症状に足がこわばり、手がわなわなと震える。(肥田舜太郎『広島の消えた日 被爆軍医の証言』日中出版1982)
戸坂でも解剖が行われた。血液検査から強烈なレントゲンのような光線を浴びたのが原因ではないかと推測され、やがて軍の情報で原子爆弾が使われたことがわかった。しかし、それで特に効果的な治療法があるわけでもなかった。今なら骨髄移植もできようが(少人数なら)、被爆直後の混乱の中では輸血やビタミン補給さえ困難だ。戸坂ではビタミン補給に柿の葉を煎じて飲ませてみたが、これもただの気休めにしかならなかった。
9月3日、当時放射線医学の第一人者だった東大医学部都築正男教授の講演会が広島であった。都築教授は8月16日に広島から東京に逃れてきた劇団員の仲みどりさんを診察し、仲さんが24日に息を引き取ると、カルテに初めて「原子爆弾症」と記入した人物だ。(中国新聞ヒロシマ50年取材班『検証ヒロシマ1945-1995』中国新聞社1995)
広島の市民が「原子爆弾症」という言葉を知ったのは、おそらく翌4日から中国新聞に連載された都築教授の報告だろう。都築教授は健康診断と安静、そして栄養価の高い食事を勧めた。レバーやトマトがよいという(『広島県史 原爆資料編』1972)。けれど、多くの人にとってはもう遅かった。今さら病名や治療方法を知ったとて死んだ人は戻ってこないのだ。