「被爆再現人形」再見2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 「被爆再現人形」の足元にも目が行った。資料館に展示してあるときは瓦礫に隠れていたから気にも留めなかったのだ。

 大人の女性の人形は地下足袋(じかたび)を履いていた。中学4年だった私の父も8月6日に地下足袋を履いて動員先の工場に出て、避難する途中、足袋の底に穴があいていたのでガラスが足裏に刺さったという。地下足袋でもガラスや釘が危ないのに、女学生の人形はなんと稾草履(わらぞうり)を履いていた。その印象が強くて男の子が何を履いていたか忘れてしまった。

 人形に何を履かせたらダメとかはないのだが、問題は原爆の爆風の威力だ。崇徳中学の1、2年生410人は爆心地から800mばかり離れた八丁堀で被爆して助かったのはわずか5人。1年生の竹村伸生さんは弁当の番をしてトラックの陰にいたので熱線を全身に浴びずにすみ奇跡的に助かった。それでも爆風でかなり飛ばされたようで、履いていた地下足袋が脱げて裸足になっていた。それに気がついたのは家のある長束にようやくたどり着いた時だった。

 

 道端に立っていた女の人が、「あんたあ、どこへ行くん」と聞くんです。「長束の家へ帰るんです」と答えたら、もう長束まで帰ってたんですが、「ちょっとあんた待ちなさい、裸足だから」と言われ、そこで初めて裸足だってわかったんです。

 「待ってなさい」と言ってわらじを持ってきて「近いけど、あんた裸足でかわいそうだからこれを履いて帰りなさい」と言われました。(竹村伸生「爆心八百メートルの記憶」ウェブサイト「被爆証言を遺そう!ヒロシマ青空の会」)

 

 爆心地から1.1km離れた雑魚場町に作業に出た広島第二県女二年西組39人のうちでただ一人37歳まで生きた平田(旧姓 坂本)節子さんは、火に追われて逃げるとき「素足の痛さ」を呪ったと手記に記している(『広島原爆戦災誌』)。また二年西組の生徒で10日に息を引き取った田中マサ子さんは、母親の手記によると「顔は額から頬にかけ焼け、シャツもモンペもずたずたに裂けて、ぼろをまとった様で、ズック靴もなく裸足で足の甲も焼けていました」という。(関千枝子『広島第二県女二年西組』ちくま文庫1988)

 地下足袋が脱げてしまうほどなのだ。ズック靴は爆風で一瞬にして飛ばされてしまったか、あるいは逃げる途中で脱げてしまったのだろう。まして稾草履など原爆の熱線で燃えたっておかしくない。そうなると裸足で瓦礫の上を逃げるのはさぞや痛かったことだろう。ガラスや釘が刺さったかもしれない。焼けた瓦を踏みつけたかもしれない。

 それで人形をつくった人は稾草履や地下足袋を履かせたのではなかろうか。見知らぬ人が稾草履をあげたように。また人形をつくった人は、服にはかぎ裂きを作っても素っ裸にはしなかった。そして顔には表情を与えた。確かに人間なのだという証であるかのように。もうこんなことは二度とあってはならないという願いを込めて。「被爆再現人形」は、そんな人形なのだと思った。