ヒロシマを歩く61 歩兵第11連隊跡碑4 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 私の父、精舎法雄が崇徳中学に入学したのは1942年だった。父は三男で小学校を卒業すると高等科に1年通ったが、長男の精舎善明は下半身不随、両足切断の体となって東京の病院に入院、次男は生まれてすぐに亡くなっていたから、寺の後継として本願寺系の崇徳中学に通わせてもらえることになったのだろう。寄宿舎で苦楽を共にした友人の沼隈真澄さんが詳しい手記を残しておられるので、戦争末期に父がどのような学校生活を送ったかがよくわかる。

 幼い頃から体の弱かった沼隈さんは兵隊になることにあまり乗り気ではなかったようだ。

 

 教科の中で一番の嫌いなのは軍事教練で、一週間に三時間ぐらいあったような気がする。運動神経の鈍い私にとっては体育よりも苦手であった。教官は元軍人で陸軍少尉や陸軍軍曹。配属将校は少佐で学校長のようにいつも生徒監室で威張っていた。(沼隈真澄『卒寿記念 被爆に学ぶ—忘却は許されない—』私家版2018)

 

 それでもゲートルの巻き方、直立不動の姿勢の取り方などは友人の助けでなんとかなり、苦労した人の多かった「軍人勅諭」の暗記朗読はうまくできた。1年生のうちは私の伯父の中学生活とそんなに違いはなかっただろう。ところが2年生になると様相が変わってきた。1942年6月のミッドウェー海戦で大敗北してから日本軍の劣勢が鮮明になってきたのだ。国内では兵士が大量動員されたから農村でも工場でも労働力が不足した。それで1週間に1日か2日、学徒動員の名目で働きに行かされるようになった。沼隈さんがよく憶えているのは真冬に田んぼに浸かって作業したことだ。

 

 農家への勤労奉仕はよくあったが、泊まり込みでは東広島市(旧 西条町)の御園宇に厳寒の時行った。これは暗渠排水作業で田の水はけをよくし、麦・米両方が収穫出来るようにするためである。水はけの悪い田んぼに入り背たけぐらい掘り下げ、そこに雑木などを入れる作業であった。足はジンジン冷え、交替で田んぼを掘る。然し、それがすむと農家の暖かいもてなしを受ける。それは寄宿舎より食事・風呂がましであった。(『卒寿記念 被爆に学ぶ—忘却は許されない—』)

 

 私の父の嫌な思い出は、比治山に高射砲陣地を作るとかで陸軍墓地の改修作業に駆り出されたことだ。要するに墓を掘り返して骨を拾わされたのだ。

 

 農家ばかりではなく、だんだんと市内の兵器廠、被服廠、船舶廠など一週間に二日間も出るようになり、寄宿舎に帰っても疲れ、勉強など手につかぬ有様で、進学を控えた上級生も次第に無口になりいら立っていた。(『卒寿記念 被爆に学ぶ—忘却は許されない—』)

 

 軍事教練も、長距離歩行とか言って、朝まだ暗いうちから重い砂袋を背負い山野を歩く訓練が行われた。配属将校の怒声のもと、すぐにでも兵隊になれるような訓練だった。

 そしてある日のこと、突然校庭に全員集合がかかった。学校長をはじめ教職員全員が居並ぶ中、朝礼台に立った配属将校が生徒に向かってとんでもないことを言い始めた。