ヒロシマを歩く60 歩兵第11連隊跡碑3 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 私の伯父の精舎善明が広島市内の崇徳(そうとく)中学に入学したのは1934年。中学時代の遺品として残っているのが「教練手簿」という小さな手帳だ。当時の中学には1925年から現役の将校が配属されて軍事教練が行われていた。1934年5月10日、伯父は「教練手簿」の最初のページに、この日までに習ったことをこう記している。

 

一、  学校教練ノ目的 学生、生徒心身ヲ鍛錬シ資質ヲ向上スル

二、  各個教練ノ目的 部隊教練ノ確乎タル基礎ヲ作ルタメ

 

 今の中学1年生の時から兵士にするための訓練が行われていたのだ。最初は敬礼などの基本動作を叩き込まれ、さらに手旗信号や測量の実習、座学では軍隊の種類や制度を教え込まれた。そして9月29日には広島駅裏にあった東練兵場で野外演習をしている。1年生はまず行進と歩哨の訓練だったようだ。

 翌年1月19日の「教練手簿」にはこう記されている。

 

 配属将校ハ当該学校ノ最終学年ニ於テ、成ルベク卒業期ニ近く、其ノ卒業スベキ者ニツキ教練ノ成績ヲ検定シ卒業ノ際、合格、不合格ヲ決定スベシ

 

 生徒の卒業の可否は、学校ではなく、配属された将校の一存によって決まったとも言えよう。『崇徳学園百二十年史』(1995)には、「戦局の進展とともに配属将校の権限が強化され(中略)治外法権的機能をもち(中略)学校教育が軍国主義化」されていったとある。また生徒の教練の成績は学校全体の評価にもなったと書かれている。

 しかし、配属将校は生徒たちにとって必ずしも恐ろしいだけの存在ではなかったようだ。石田明さんが修道中学に入ったのは1941年。

 

 配属将校が軍刀を腰に校舎・校庭を闊歩し、生徒たちは畏敬の念をもって彼をみました。カーキ色のマントを羽織り、堅く光った革の長靴をはいてさっそうとゆくその姿は、少年たちのあこがれの的であったと思います。学級のエリートは、陸軍幼年学校、陸軍士官学校や海軍兵学校をめざし、教師もそのように指導していました。(中略)

 学校はすでに教育の場ではなく、日本軍隊の予備練兵場になっていたのだと思います。(石田明『被曝教師』一ッ橋書房1976)

 

 伯父は中学在学中に猛勉強をしたのだろう。1937年12月1日、陸軍予科士官学校に入学した。そして入ってすぐの授業で教えられた「建軍ノ本義」を日記に記している。

 

 我国ノ軍隊ハ 天皇親率、国基ノ恢弘、国民皆兵ノ軍ニテ世界ニ類ノナキ立派ナル軍隊ナリ、然シテ我等ハ将来ソノ中堅タルヘキ将校生徒ナリ(精舎善明「日記」1937.12.8)

 

 天皇が率いる「立派ナル軍隊」の将校はこのように育てられ、1940年9月15日、陸軍士官学校を卒業した伯父は中国南部に移動した歩兵第11連隊に合流すべく宇品港で船に乗り込んだ。

 

 進軍ラッパト共ニ乗船勇躍タリ 海送ラルヽモノ陸送ルモノ渾然一タリ 噫ソノ感激 宇品ノ光景 忘ラレザルナリ カクシテ十六時出帆 内海真ニエメラルドノ如ク 舟足滑ルガ如シ アノ月 コノ山々・・・(精舎善明「日記」1940.9.15)

 

 中国南部の戦場で弾丸が伯父の右胸を貫き下半身不随の体となったのはその半年後のこと。伯父はその時まだ19歳だった。