何年か前に知り合いのおじいさんから聞いた話を思い出した。その人が言うには、近所に戦争に行った人がいたが、その人は酒に酔えばいつも床に這いつくばって「わしゃ南京で一斉射撃したんじゃー」と泣き喚いたというのだ。おそらく、民間人と思われる人たちを一か所に集めての一斉射撃だったのだろう。こうした戦場で受けた心の傷は死ぬまで癒やされることはないということか。しかしこうも言える。その人は死ぬまで自分の罪を忘れることはなかった、そしてずっと後悔し続けたのではなかったか。
戦争神経症に罹った兵士は単に戦争の被害者と言い切ることはできない。加害者であったからこその被害者なのだ。罪を犯した後の人生をどう生きるべきなのか、もがき苦しみながら答えを探そうとしたのではなかろうか。
問われなければならないのは戦争を起こした国の責任、軍隊内部でのリンチや戦場での民間人に対する虐殺、強姦、略奪を容認した軍隊の責任だ。それらは今この国に生きる私たちの責任でもある。このことを無かったことにしたら、よその国の虐殺を非難することなどできるはずもない。
ハンセン病患者に対する強制隔離などの人権侵害についても、日本国内だけでなく、かつての植民地や占領地における国や当時の軍隊の責任は重い。中でも第一次世界大戦後に日本が委任統治という名の植民地支配をした「旧ドイツ領南洋諸島」(マリアナ諸島、パラオ諸島、カロリン諸島)ではハンセン病患者の強制隔離だけでなく、飢えに苦しんで逃げ出した患者を日本軍兵士が殺害までしている。
それは1944年10月、ゴロール島というハンセン病患者が隔離された島で採れるわずかな食糧を日本軍兵士が奪ったことがきっかけだった。逃げたのは現地住民13名、沖縄県出身者2名、朝鮮人1名とされるが、ほとんどが追跡した日本軍兵士に惨殺された。
なぜそこまでしたのか。調査した藤野豊さんは、ゴロール島の隣の島に日本海軍の基地があり、逃げた患者がアメリカ軍に軍事機密を漏らすことを恐れたと見ている。また、日本軍将兵への感染を恐れての隔離だったが、アメリカ軍の空襲が激しくなると隔離が困難になるので殺害したとも考えられる。現在、ゴロール島はジャングルに覆われた無人島だ。日本軍に殺された人たちがどこに埋められたか特定することは絶望的だという。
藤野豊さんは、「日本国内で隔離されたハンセン病患者への国家としての謝罪と賠償・補償はなされたが、かつての植民地・占領地のすべてについては、まだなされていない」とし、「中国・東南アジア・太平洋地域の各地で日本軍の軍政下に置かれた患者の存在を記憶し、その被害事態の解明を追究することなしには、日本のハンセン病問題の解決はありえない」と指摘されている。(藤野豊『戦争とハンセン病』吉川弘文館2010)
それにはかつて「軍都」と呼ばれた広島が今なすべきことも当然含まれる。原爆でほとんど焼き尽くされたにしても、その焼け跡はこれからも掘り起こさなければならないのだ。