ヒロシマを歩く44 ひしゃげたベッド7 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 広島陸軍病院には他にも軍隊、国家にとって不都合な患者が収容されていた。ハンセン病の兵士だ。肥田舜太郎さんは配属されてしばらくは知らなかったようで、著書には「社会から隔離された軍隊の中の隔離された伝染病棟から更に隔離された員数外の病棟があろうとは夢にも知らなかった」とある。(肥田舜太郎『広島の消えた日 被爆軍医の証言』日中出版1982)

 ハンセン病は発症力の弱い感染症で、1943年に特効薬もできているから現在ではたとえ罹っても治る病気になっている。しかし古代から現代に至るまで、ハンセン病に罹った人は、皮膚が侵されることによる運動マヒや知覚マヒ、容貌の変化といった病気の苦しみだけでなく、社会から排除され差別される苦しみまで背負わされてきた。

 それでも1930年になると国際連盟は、ハンセン病は治療可能だから患者の社会復帰を前提に、施設への隔離だけでなく外来治療を可能とする制度を確立すべきだと提言した。(加藤茂孝「ハンセン病 苦難の歴史を背負って」理化学研究所『モダンメディア』2014)

 ところが日本は逆で1931年から全てのハンセン病患者を死ぬまで隔離することに決めた。戦争をするためだ。

 

 その年の九月十八日、柳条湖事件により満州事変が勃発し、日本は十五年間にわたるアジア・太平洋戦争に突入する。優秀な兵力を長期にわたり維持・確保するためには、ハンセン病患者はひとりといえども社会に存在することは許されなくなった。(藤野豊『戦争とハンセン病』吉川弘文館2010)

 

 1941年に京都大学の小笠原登は、ハンセン病は「遺伝病でも不治の病でもなく、また感染力も微弱であるから、患者らへの迫害を止めるべきだ」と訴えたが、国家政策を押しとどめることはできなかった。(「ハンセン病 苦難の歴史を背負って」)

 

 中国の戦場にいた石上耕太郎さんがハンセン病を発症したのは1941年のこと。天津の陸軍病院でハンセン病と診断されて日本に送り返された。

 

 石上を乗せた千歳丸は広島の宇品港に到着する。岸壁では国防婦人会の女性たちが待っていて戦傷兵士をねぎらっている。石上は最後に下船を許され、そのまま広島の陸軍病院につくられたバラック建ての特別病棟のいちばん隅の部屋に入れられた。そこには石上を含めて四人のハンセン病患者の兵士が収容された。(「ハンセン病 苦難の歴史を背負って」)

 

 病院内の差別もひどかった。売店で買い物をすると紙幣は受け取ってもらえず、硬貨は消毒液に漬けられた。風呂に入れてもらえず、軍医から「お前たちを入れる風呂はないんだよ」と言われた。

 それからハンセン病の兵士は人の目にふれないようにして人里離れた「療養所」に転送された。日本全土でハンセン病患者を全て隔離して「優秀な兵力の確保」をしようとしているのに、その兵士がハンセン病を発症して戦場から離脱しているなどあってはならないこと、国民には絶対に知られてはならないことだった。

 肥田舜太郎さんの記憶によれば、8月6日朝、広島駅には遠方の病院に転送が決まったハンセン病の兵士がいたはずだった。しかし原爆の後、その兵士がどうなったを知る者は誰もいなかった。