ヒロシマを歩く22 馬碑は見た4 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

市営基町アパートの被爆クスノキ

 輜重兵補充隊の目代延雄さんは原爆が投下された時は防空壕の中にいて奇跡的に助かり、翌日からは広島市郊外にあった演習場の兵士とともに遺体の処理にあたった。

 

 兵舎の下敷きになった兵隊の取出しは大変であった。太田川の土手に並べての火葬である。一〇人や二〇人ではない、何百人を兵舎の焼け残り材を覆っての作業、暑い・暑い・夏のこと、悪臭と被爆での火傷した死骸、子供の頃、お寺で地獄極楽の絵巻を見た時の……地獄絵巻の感じがいたしました。(目代延雄「原爆の思い出(体験記)」広島原爆死没者追悼平和祈念館)

 

 今のサッカースタジアム横の散歩道。戦後は「相生通り」と呼ばれ、近年「基町POP'La通り」と名付けられた太田川の土手道は、原爆投下直後、何百もの遺体の火葬場でもあったのだ。それを知っているのが青少年センター横の土手にあるシダレヤナギ。そして市営基町アパート駐車場そばのクスノキだ。シダレヤナギは爆風で折れたところから新芽が育ったものだが、クスノキの幹には原爆による火災で焼かれた跡がはっきり残っている。

 クスノキのある場所は「輜重兵補充隊」跡地の北端になり、それより北は被爆当時、広島第二陸軍病院本院だった。そして「輜重兵補充隊」跡地の東側にはかつて「砲兵補充隊」があり、これら広大な軍用地には戦後マッチ箱のような小さなバラックが1800戸も建てられた。しかしそれでも全然足りなかったというのが原爆で焼け野原になった広島の現実だった。

 広島市中心部で生き残った人たちは、着の身着のまま、食べるものに事欠き、そして雨風をしのぐのがまた一苦労だった。当時爆心地から1.5kmばかり離れた白島に住んでいた7歳の安井健一さんは、母親とともに奇跡的に助かったが、父親は爆心地である島病院の真向かいにあった広島郵便局に勤めていて遺体も遺骨も見つからなかった。

 

 それまでの母は病弱で、床に伏すことのほうが多いという人だったが、あの日から、人が変わったように頑強になり、まるで鬼になったような気がした。一瞬にして家と財産、頼りの父まで失い、これなら殺されていたほうがましだったとまで思ったそうだ。(中略)

 被爆の翌日、自宅が焼けてしまったので、お寺の墓石に筵をかけて、近所の人たちとの生活を始めた。配られたむすびや焼けた米や芋を拾い集めて雑炊にして食べた。

 数日後、焼けた柱やトタンを拾ってきて、寺の外塀に架け、バラックとも言えぬ小屋で母、姉、私の生活が始まった。(安井健一「『空白の十年』を生きて 伝えたいこと」広島県原爆被害者団体協議会『「空白の十年」被爆者の苦闘』2009)

 

 しかしそれでいつまでも過ごせるはずもない。行政の支援も当てにできない。何とかしなければ、何とかしなければと誰もが呟いたことだろう。