ヒロシマを歩く21 馬碑は見た3 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 日中戦争で「輜重兵第五連隊」などの第五師団が広島を離れると、そのあとに「留守部隊」が配置された。戦地の部隊に兵隊や馬を補充するためだ。しかし補充は次第に困難になっていく。第五師団は日中戦争で中国北部を戦場としたが、太平洋戦争が始まるとマレー半島に上陸しシンガポールまで攻め入った(ここら辺についてはブログ「戦争の足音」「軍都壊滅」に書いた)。そして1942年末からはインドネシアの島々に移動している。そのころになると補給のために船を出すのも命懸けだった。

 「輜重兵第五連隊」への補充が困難になっても、「輜重兵第五連隊留守部隊(1940年から輜重兵第五連隊補充隊)」は召集された人たちを「兵士の家族には見せたくない」ほどしごいて新たな輜重隊を編成し新設の師団の配下に置いた。

 第39師団(通称「藤」部隊」)は1939年に広島で編成されて中国戦線に投じられたが、最後はシベリアに抑留となっている。1948年に舞鶴に戻れた人たちはどれだけだったのだろう。

 1945年になると日本本土が決戦場とされた。第145師団(通称「護州」部隊)は広島で編成されて北九州へ、第205師団(通称「安芸」部隊)は高知県太平洋岸へ、そして第231師団(通称「大国」部隊)は山口県の日本海沿岸に配置された。爆弾を抱いて上陸してくる敵戦車の下に飛び込むのが任務だ。そして中部地方に送られるはずだった第224師団(通称「赤穂」部隊)輜重隊を編成中に、「輜重兵第五連隊補充隊」は8月6日を迎える。第3中隊長だった渡辺正治さんは横川駅近くの借家で被爆したが、すぐに広島城本丸跡西側の輜重隊に駆けつけた。

 

 三中隊の事務室の前に将校が一人俯けに倒れている。事務室の窓付近に指揮刀が見える。材木を取り除くと見習士官である。崩れた屋根の下には、そこここに呻き声が聞こえる。瓦を剥ぎ板を破って一人々々助け出す。十数人を運び出した頃、病院からの飛び火で連隊本部が燃え始めた。(中略)本部兵舎車庫倉庫等々、営内はすべて火の海。時おり遠く近く「助けてー。」「ギャアー。」と断末魔の凄惨な絶叫が聞こえる。突然後方の炎が急に赤くなったと思うと、空全体が真赤になり、火焔がゴウゴウと中天に渦巻き始めた。(渡辺正治「広輜五補充隊の最後」諏訪登編『広島輜重兵隊史』1973)

 

 『広島輜重兵隊史』によると、「中国軍管区輜重兵補充隊」は、軍人・軍属の被爆死が188名、行方不明235名、負傷343名、生存者が157名とされている(郊外の演習場にいて助かった兵士も多かった)。

生き延びたひとり目代延雄さんはその夜、本部の焼け跡で警備についた。

 

 夜の深まるに従い異様な気持ちになる。生温かい風と共に鼻をつく臭い、周囲は真暗である。被爆した軍馬がフラリフラリと人恋しと寄ってくるが、どうしてやることも出来ずかわいそうでならない。(目代延雄「原爆の思い出(体験記)」広島原爆死没者追悼平和祈念館)

 

 馬はいったい何頭死んだのだろう。