ヒロシマを歩く2 護国神社の跡2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

神社とともに広島城址に移転した被爆鳥居

 広島逓信病院院長の蜂谷道彦は原爆で大けがをしてしばらくベッドから動けなかったが、職員や心配して駆けつけた知人から広島の惨状を知ることができた。その中には「新兵器の特殊爆弾が護国神社の近くに落ちた」という情報もあった。なぜ護国神社なのか。蜂谷道彦は8月13日になって街を見て回り、納得した(後に島病院あたりと考えを変える)。

 

 爆心地という護国神社の鳥居のところへ行ってみた。なるほど真上から爆撃されたに違いない。少しもくるいがない。鳥居の額まで落ちていない。鳥居は抵抗が少ないからなあ、と独語した。(蜂谷道彦『ヒロシマ日記』平和文庫2010)

 

 護国神社の鳥居3基のうち北側と東側の鳥居は倒壊して粉々になったが、爆心地から150mしか離れていない南側の鳥居だけはすっくと立っていたのだ。あたり一面焼け野原の中に見える鳥居は多くの人に強い印象を与えた。

 『写真記録 ヒロシマ25年』という写真集にも護国神社の鳥居が載っている。佐々木雄一郎さんが1945年12月に撮影した。「護国神社の鳥居の額が落ちていないのが印象的。額の角度と爆風の角度が一致していたためだろうといわれている」とコメントがついている。(佐々木雄一郎『写真記録 ヒロシマ25年』朝日新聞社1970)

 

 東京でカメラマンをしていた佐々木さんが広島駅に降り立ったのは8月9日。しかしこの時は取材を禁止されて写真は一枚も撮れなかった。戦争が終わって郷里の広島に戻ってきたのが18日。それから家族の安否を尋ねて歩き回った。

 

 まず西十日市町(爆心地から西方七○○メートル)の自宅附近に向って、約三キロメートル焼跡の中を歩いた。母と長兄家族、妹たちが住んでいた所は跡形もなく、勿論誰の姿も見当らない、軌道からはみ出て焼けた電車が近くにあり、カメラに収めようと近づいてみると、その電車に長兄(利男)の行先が書いてあった。「あッ、生きている。」と思うと、もう目がしらが熱く、その足ですぐ田舎の叔母の家すなわち避難先をたずねて行った。(『写真記録 ヒロシマ25年』)

 

 長兄から聞いたのは、崩れた家の下敷きになったまま焼け死んだ母と兄嫁の最後。そして行方不明のままの兄の子どものこと。その兄も8月30日に「原爆症」で息を引き取った。佐々木さんは他にも次兄や姉、弟や妹、その子どもたちなど全部で13人を原爆で喪ったのだ。

 佐々木さんは、一人一人の最後の場所を訪ねてカメラのシャッターを切った。

 

 この時から廃墟と化した死の町のあちこちを歩きまわり、あとに遺された家族のことを思いながら、シャッターを切った。

 焼野が原を写し歩いているうちに、ただ一発の爆弾の惨禍が如何に激甚であるかということを改めて知った。その非情非道性を赤裸々に撮影しておくことは、いつの日か何かに役立つであろうと、カメラに追い続けているうちに、気がついてみると二〇数年も経っていた…(『広島原爆戦災誌』)

 

 佐々木さんの10万枚を超える写真はヒロシマの貴重な財産となった。見つかった鳥居の台座も、佐々木さんが写真に撮っていたおかげで護国神社の北側の鳥居と判明したのだった。