『オッペンハイマー』55 原子力帝国5 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 核の国際管理をどう進めるかについては、1946年3月に「アチソン・リリエンソール報告」が公表された。それは国連の原子力委員会で提案するためにアメリカ国務省の指示で作成されたものだが、その草案づくりの中心となったのがオッペンハイマーだった。

 オッペンハイマーが考えたのは、国連に原子力に関する強い権限を持った「原子力開発機構(ADA Atomic Development Agency)」を設立することだった。ADAがウラン鉱山、原子力発電所、核関連工場、研究所の全てを独占的に掌握することによって世界のどの国も原爆の製造ができないようにするとともに、原子力の平和利用目的での研究成果は世界に広く公開していくというものだった。それはいわば核を独占する世界政府だ。これ以外に際限のない核軍備開発競争と人類を恐怖に陥れ破滅に導く核戦争を防ぐ手段はないと、オッペンハイマーは確信した。

 しかし、トルーマン大統領が指名した国連原子力委員会アメリカ代表の名を知った時、オッペンハイマーたちは愕然とした。オッペンハイマーとともに報告書を作り上げたデビッド・リリエンソールは日記にこう書いた。

 

 われわれが必要としているのは、若く、元気で、うぬぼれ屋でなく、真の国際協調を考えず単に封じ込めに出てきたとロシアに感じさせないような人物である。バルークは、この特性のどれも備えていない。(カイ・バード マーティン・J・シャーウィン『オッペンハイマー(中)原爆』ハヤカワ・ノンフィクション文庫2024)

 

 バーナード・バルークは金融界の大物であるとともに歴代大統領の特別顧問も務めた老練な政治家だ。彼は早速「アチソン・リリエンソール報告」を換骨奪胎し、国連に提出するアメリカ案を作り上げた。その中で特に注目したいのは、核の国際管理に違反した国は直ちに核攻撃による制裁の対象とするという項目を新たに付け加えたことだ。それは、アメリカがいつまでも核兵器を独占し絶対に手放さないことを意味する。

 1946年6月14日、バルークは国連に核の国際管理についてのアメリカ案を提示した。そして誰もが予想した通り、ソ連はその案を直ちに拒絶した。

 ソ連の科学者たちもドイツやアメリカと同じ時期に原爆が製造可能なことに気づいていた。ソ連はアメリカから密かに情報を入手しながら原爆開発を始め、広島と長崎でアメリカが原爆をさく裂させたことを知ると、スターリンは科学者の尻を叩いて原爆開発を一層加速させた。ソ連の最初の原爆がさく裂したのは1949年8月29日、カザフスタンのセミパラチンスクでのことだった。それ以後、世界で核開発競争は際限なく進み、緊張は高まり、1950年に始まる朝鮮戦争、1962年のキューバ危機で最高潮に達して世界中を恐怖に陥れたのだ。

 オッペンハイマーは自ら生み出した原爆という怪物を頑丈な檻に閉じ込めようと懸命に努力した。しかし、ここでも挫折を味合うことになる。映画『オッペンハイマー』の原作にはこう書いてある。「世界は変わった。アメリカ人は、自国の危険を覚悟で一方的に振る舞うことになる」と。(『オッペンハイマー(中)原爆』)