『オッペンハイマー』36 ヒロシマ ナガサキ8 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 広島・長崎への原爆投下。ソ連の参戦。日本降伏の決定打はどっちだという議論もあるが、この二つだけを注目してはならないだろう。もともと無理な戦争を始め、とうとう武器も食糧も底をついてしまった。すでに戦争に負けていたのだ。国民の「厭戦」や軍に対する「不信感」を政府も察知していた。

 そういえば、中国新聞記者の大佐古一郎さんが1945年5月27日の日記に記している。久しぶりに同僚とキリンビアホール(かつて今のパルコのところにあった)へ行った時のこと。酔えば軍隊への不満が噴き出す。誰かが言った。「わしは、特権意識を丸出しに、帯剣をガチャガチャさせて本通りを闊歩しとる将校を見ると、殴りたくなることがある」。(大佐古一郎『広島昭和二十年』中公新書1975)

 政府や軍がこだわったのは天皇の地位保全、「国体護持」だった。これがため戦争は長引いたが、昭和天皇は、「皇室の安泰」に見通しが立ったとしてポツダム宣言受諾を決断した。その確信はどこからきたのだろう。

 立命館大学名誉教授の藤岡惇さんによると、1945年8月11日付のニューヨークタイムズ紙は一面トップで、

“Japan offers to surrender; U.S. may let Emperor remain; Master reconversion plan set”

(「日本が降伏を申し出る。アメリカは天皇を存続させるだろう。主要な戦後復興計画策定」)と大々的に報じた。

  そしてこれが翌日になると、

“Allies to let Hirohito remain subject to occupation chief; M’arthur is slanted for post”

(「連合国は、占領軍司令官への従属のもと裕仁を存続させる。マッカーサーが司令官のポストにつく予定だ」)となった。藤岡さんは、作家の小田実さんの指摘を紹介している。「翌12日付けの『ニューヨーク・タイムズ』には、もっと驚くべきことに、前日のmay(であろう)がなくなって、ヒロヒトを残すことを決めたと書いてある。……これは(中立国の)スイスを通じて、天皇の耳、日本政府の耳に入っていたはずです」(藤岡惇「なぜ米国は2発の原爆を日本に投下したのか―投下70周年の時点での再考―」『立命館経済学』2016)。

 新聞の記事の内容が外務省を通じて天皇に届けられ、天皇の判断に影響を与えた、かどうかは不明だが、藤岡さんは、スイスの日本大使館を通してアメリカ政府と内々の交渉が行われたと見ておられる。それなら天皇が確信を持てたのもうなずける。

 アメリカは1945年2月のヤルタ会談でソ連に対日参戦を求めたが、原爆の持つ都市(市民)に対する壊滅的な破壊力を確かめると、一転して日本にできる限り早い降伏を促す方向に舵を切った。ソ連のアジアへの影響力拡大を怖れたのだ。

 米ソの覇権争いという国際政治の荒波に日本が呑み込まれた末のヒロシマ・ナガサキだった。原爆によるヒロシマ・ナガサキの壊滅は、世界、特にソ連を恐怖させることが目的だったと言えよう。また、悲惨な戦争をずるずると長引かせたのは、「国体護持」への固執だったのも間違いないところだ。これが、原爆投下を引き寄せた。

 「もう少し早く戦争が終つてくれたら――この言葉は、その後みんなで繰返された」と原民喜は書いた。「もう少し早く戦争が終ってくれたら」。蚊帳の外に置かれたヒロシマ、ナガサキの人たちは、ただ嘆くことしかできなかった。