『オッペンハイマー』15 トリニティ6 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 原爆は日本に使うという考えは、マンハッタン計画がスタートした翌年の1943年5月にはもう出てきている。グローヴスらが出席したマンハッタン計画の軍事政策委員会で、最初の原爆は西太平洋のトラック島(現 チューク諸島)に集結していた日本の連合艦隊に投下するというものだ。この時の最初の一発は実験的な性格が強く、必ずしもドイツに使わないと決めたわけではなかったようだが、日本が選ばれたのは、ドイツと違って爆弾から知識を得る可能性が低いからだったという。(「澤田昭二の『反核ゼミ』15」『原水協通信2003年6月号』)

 そのころアメリカの科学者たちは、ドイツが原爆開発で先行しているのではないかと心配していた。ドイツの勢力圏内に原爆を投下して、もし失敗して不発弾にでもなったら、アメリカの機密情報がドイツに知られるのは確実と考えたのだろう。

 これが1944年9月段階となると、ドイツに落とした原爆が不発弾になって機密が漏れたら、ドイツがソ連に占領された際にはドイツの科学者ともども、その情報がソ連に渡る可能性があった。チャーチルはそれを心配したのではなかろうか。

 あらためてハイドパーク覚書を読んでみると、第2項に、戦後も核兵器だけでなく原子力産業分野でも英米で協力して開発するとある。そして情報公開はしない、できる限り機密を漏らさないというのだから、それは核兵器と原子力産業を独占したいということに他ならない。

 そうなるとアメリカがひとり独占するのか、アメリカとイギリスで共有するのかが両国間の懸案事項となる。「イギリスにも原子力の分前がいる」と念を押すこと。これが、チャーチルがニューヨーク州ハイドパークにあったローズヴェルトの私邸を訪ねた目的だろう。

 ローズヴェルトは少し持て余したかもしれない。原爆をどこに落とすか決めるなどまだ先の話ではないかと言ったかもしれない。それでチャーチルは“it might perhaps“という曖昧な表現に修正したのではなかろうか。

 結局ローズヴェルトは「ハイドパーク覚書」を金庫に仕舞い込んだままにして、側近に知らせることもなかったという。ローズヴェルトにとって「ハイドパーク覚書」の取り決めは、あまり乗り気がしなかったということだ。アメリカにはアメリカの、誰にも邪魔されたくない原子力政策があった。

 ハイドパーク覚書にはまだ意味がよく飲み込めていないところがある。“should be warned that this bombardment will be repeated until they surrender“(日本人が降伏するまでこの爆撃が繰り返し行われることを警告しなければならない)。その時原爆はまだ一発もできていないのだから、何度でも原爆を落とすことができるかどうか、まだわかりはしない。言ってみただけなのだろう。一発落とされただけでは、日本人は原爆の怖さがわからないとでも思ったからだろうか。

 そうではなくて、原爆は一発で終わりではない、何発もあるという「警告」をするというのだ。それは日本に対してだけではないかもしれない。アメリカには日本が降伏するまで何発でも原爆を落とす力があると思わせたら、他にも恐怖を感じる国があるだろう。チャーチルとローズヴェルトが恐怖を感じさせたい相手は他にいるということではなかろうか。