『オッペンハイマー』16 トリニティ7 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 当時アメリカの軍事科学研究を統括していたヴァネヴァー・ブッシュとジェイムス・コナントが、1944年9月30日付でスティムソン陸軍長官宛てに覚書を書いている。それには、アメリカは1945年夏までに10キロトン相当の原爆を数発つくれるだけの核物質を生産できるが、ドイツの原爆開発はそれほど進んでいないという可能性が大きいとあった。(山本晃他編『資料マンハッタン計画』大月書店1993)

 オッペンハイマーが、ドイツの原爆開発が遅れているようだとグローヴスから聞いたのは1943年末だった。グローヴスはその時、これは偽情報かもしれないと疑ったが、1944年11月になるとドイツが原爆開発を断念したのはもう間違いなかった。

 こうした情報はロスアラモスでは一部の人間しか知らなかったが、ドイツの敗北が間近に迫っていることは誰の目にも明らかだった。金も物も人も足りなければ原爆をつくることもできない。しかしそうなると、ヒトラーの野望を挫くため懸命に原爆を開発してきた自分たちのこれまでの努力は一体なんだったのかと科学者たちは考えるのだった。

 ヴィクター・ワイスコップはナチスの迫害を逃れてアメリカにやってきた物理学者で、当時マンハッタン計画に参加していた。

 

 ワイスコップの回想によると、ヨーロッパ戦争の先が見えてきたため、「戦後世界の将来のほうを考えるようになった」。最初はただ自分たちのアパートに集まって、「この恐ろしい兵器はどのような影響を及ぼすか? われわれは、何か良いことをしているのだろうか、それとも悪いことをしているのだろうか? それがどのように使われるかについては、心配してはならないのか?」といった問題を話し合った。(カイ・バード マーティン・J・シャーウィン『オッペンハイマー(中)原爆』ハヤカワ・ノンフィクション文庫2024)

 

 こうした討論はロスアラモスのあちらこちらで行われるようになった。オッペンハイマーはそうした話は好まなかったが、討論会には参加した。ロスアラモスの秘密を世界が知らずして戦争を終わらせることはできないと主張するのだった。

 

 最悪の結果は、この「ガジェット」が軍事機密のまま残ることであろう。もしそうなったら、次の戦争が核兵器で闘われることは、ほとんど確実である。「ガジェット」をテストできるところまでは、何としても努力しなければならないと、彼は説明した。(『オッペンハイマー(中)原爆』) 

(「ガジェット」は「装置」。ロスアラモスでは原爆を意味していた)

 

 ロスアラモスの科学者たちは、戦争が終わればソ連も他の国もすぐにアメリカのレベルまで核開発を進めると予測していた。では世界の国々が秘密主義の壁に囲まれた中で核開発競争を進めたらどうなるかとオッペンハイマーは言うのだ。世界は不信と恐怖に覆われ、戦争が始まったらとんでもないことになる。何としても他国に先んじて原爆をつくり、そのことを公開したら、近く設立される国際連合でローズヴェルトが核兵器の国際的管理についての議論を主導できると彼は信じた。映画の原作『オッペンハイマー』の著者はそう主張する。

 でも、それが本当にオッペンハイマーの本心だったのだろうか。