落下傘の謎12 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 中国新聞社が1985年に出版した『もう一つのヒロシマ』は、堀川惠子さんが陸軍船舶司令部の送信とされる電文についてこう見解を述べている。

 

 防衛庁戦史部(東京・目黒)に「戦況手簿」という大本営の原本がどうした理由か残っている。毎日の戦況を整理記載したもので、敵情、戦果、被害が全戦域にわたっている。八月六日の項に「〇八一五、B29四機(?)広島ニ来襲シ原子爆弾一ヲ投下、広島市大部壊滅(かいめつ)ス」とだけ記録されている。発信者、受信時間は不明である。(御田重宝『もう一つのヒロシマ』中国新聞社1985)

 

 著者である御田重宝(おんだ しげたか)さんは、原子爆弾と言う言葉を8月6日に使うことは絶対にないと断言する。日本が「原子爆弾」と言う言葉を知ったのは、日本時間の8月7日午前1時過ぎに発表されたトルーマン大統領声明によってであり、「戦況手簿」は電報や報告書をもとに担当官が整理したものだから、必ずしも報告を受けた当日に記入したとは限らないと考えられたのだ。

 しかし「原子爆弾」がそれまで日本で全く知られていなかったわけではない。実は御田さんも『もう一つのヒロシマ』の別のところで「原子爆弾」について触れている。そのころ科学雑誌などで、もし「原子爆弾」ができたら、小型マッチ箱(最近とんと見ないが)ぐらいの大きさでも軍艦一隻を沈めるぐらいの威力があると紹介されていたというのだ。夢物語としてならば、「原子爆弾」を知っている人は結構いたようだ。

 宇品の陸軍船舶練習部でも被爆前日の5日、広島文理科大学の三村剛昂(よしたか)博士から原子爆弾についての講義を受けている。

 

 三村教授の講演が終り、質疑応答がおこなわれたとき、加藤中佐が立って、「原子爆弾とは如何なるものですか。今次戦争に実用化可能ですか。」と、質問した。

 三村教授は、構造式を黒板に書いて説明し 、「東京の仁科博士一派の研究室は、すでに究明されており、偉大な性能のものですが、今次戦争には、到底間に合いません。」と答え、「要するにキャラメル一個大の原子核が爆発すれば、広島市くらいは一度に壊滅するものです。」、と説明した。(『広島原爆戦災誌』)

 

 とてつもない破壊力を目の当たりにした時、軍人であればなおさら、これは普通の爆弾ではない、噂に聞く「原子爆弾」ではないかと考えても不思議ではない。8月6日午前10時過ぎ、陸軍船舶司令部では次のような話が出たという。

 

 市内の状況が、逐次判明して来たので、爆撃の実体について種々研究を進めることとした。研究会の席上、誰れであったか、「米国が新しい爆弾を作って居るとの情報があったが、今度のはそれではないか」との発言があり、確定に至らなかったが、或いは然らんとの結論に一致したようであった。

 陸軍大臣・参謀総長宛、広島被爆の概況につき、電報報告をした。(佐伯文郎「広島市戦災処理の概要」『広島原爆戦災誌』)

 

 しかし、たとえ原子爆弾ではないかと疑ったとしても、もしかしたらという程度のことで果たして大本営への報告に「原子爆弾」と言う言葉を使うだろうか。その言葉を使ったら、原爆の開発が行き詰まっていた大本営への当てつけかと受け止められはしないだろうか。