落下傘の謎11 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 原爆で壊滅した広島で残った軍隊は宇品の陸軍船舶司令部とその配下の部隊だった。船舶司令部は、戦争のない時は陸軍省の下にある陸軍運輸部という組織だが、戦争になると大本営直轄となり陸軍部隊の戦地への輸送にあたった。司令部とその配下の部隊の「秘匿名」は「暁」で、まとめて「暁部隊」と呼ばれた。

 太平洋戦争中、陸軍船舶司令部の庁舎は宇品の凱旋館(1974年解体)だった。爆心地から南に約4.5km。当時、船舶司令部の写真班だった尾糠政美さんが被爆時の様子を記している。

 

 私たち写真班七人は、凱旋館の前庭で、毎日のごとく訓示を受けている時に被爆した。突然、強烈な黄色い光が目の前に拡がり、ドンと腹にこたえる轟音が伝わった。一瞬、その場に伏せた。しばらくして頭をあげると、建物の中にいた者が、窓ガラスの破片で顔を切って血だらけになり、悲鳴をあげていた。しかし、爆撃を受けた様子もない。

 写真室に帰ってみると、棚が落ちている。ほとんどのガラスが割れている。「これはかなり大きな爆発だな」と思い、兵器廠かガスタンクの爆発だろうかと話しあった。しかし、それもつかの間のことで、市内の方向に黒煙が立ち昇り、空は入道雲が幾重にも重なったような不気味な様相に変っていた。(『広島原爆戦災誌 第5巻』)

 

 当時船舶司令部司令官だった佐伯文郎さんが1955年に記した「広島市戦災処理の概要」には被爆直後の状況が次のように記されている。

 

 原爆直後、爆発の状況は全く不明であった。市内中心部の上空には入道雲が折り重なって天に冲し、実に凄惨な痛ましい状況を呈した。総軍・中国軍管区司令部・県庁・市役所に連絡した処、通信不通で状況が不明であったが、 市内に火災が起ったことは現実に認められた。そのうちに火傷した患者が構内に、陸続と押しかけて来たので凱旋館屋内に収容し、船舶軍医部が総がかりで応急手当をした。今や一刻も忽せにし難い状勢になったものと認められたので、午前八時五〇分取敢えず、市内の消火並びに救難に対応処置をとると共に、患者を最も安全地帯たる似島検疫所に輸送することとした。(以下略)(『広島原爆戦災誌 第1巻』)

 

 第二総軍司令部も中国軍管区司令部も連絡がつかない。佐伯司令官は8時50分に独断で「船防作命(船舶司令部防衛作戦命令)第一号」を出した。

 

 一、本六日〇八一五敵機ノ爆撃ヲ受ケ各所ニ火災発生シ爆風ノ為被害相当アルモノゝ如シ

 二、予ハ広島市ノ消火竝ニ救難ニ協力セントス(以下略)( 安藤福平「《史料紹介》原爆投下直後の在広陸軍部隊公文書『船舶司令部作命綴』と『第五十九軍作命甲綴』」『広島県立文書館紀要 第13号』2015)

 

 問題は、船舶司令部が大本営にいつ被爆の第一報を送ったかだが、「広島市戦災処理の概要」には10時になってから「陸軍大臣・参謀総長宛、広島被爆の概況につき、電報報告をした」とある。では、それはどんな内容だったか。堀川惠子さんは、著書『暁の宇品』の中で次の電文だったとされる。大本営の記録に残る発信者不明の報告だ。

 

 〇八一五 B29 四機広島ニ来襲シ原子爆弾一ヲ投下広島市大部壊滅ス

 

 確かに8時15分という時刻は「船防作命第一号」と一致している。だが、はたしてこれが船舶司令部の送った電文なのだろうか。