落下傘の謎9 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 当時17歳だった斎藤美知子さんは軍属として中国軍管区司令部の半地下壕の中、通信室で勤務していた。その任務は、大阪の中部軍管区司令部との電話連絡、それに警報板のスイッチを押して指揮連絡室から出される警報を各部所に伝達することだった。

 8月6日午前8時過ぎ、指揮連絡室にいた岡ヨシエさんの証言では8時13分に警戒警報発令。斎藤さんは急いで警報板のスイッチを押しはじめた。半分くらい伝達し終った時、窓から強烈な閃光、続いてものすごい爆風に襲われた。斎藤さんは吹き飛ばされて気を失った。

 原爆がさく裂する直前、多くの人は警報のサイレンが鳴らなかったと言う。しかし中には鳴った途端に閃光が走ったという証言もある。斎藤さんの押したスイッチが広島の一部地域でサイレンを鳴らした可能性もないとは言えない。 (ブログ「8時15分に警報は鳴ったか?」)

 何がどうなったかわからないまま気を失った斎藤さんは、しばらくして気がつくと一旦外に出てみた。が、すぐ部屋に戻った。持ち場を死守せよという命令を思い出したのだ。

 

 ともかくと壕にもどると担当の電話が鳴っています。受話器をとると女の人の声・・・・・「広島がやられたさうですがどんな状況ですか」私「何が何だかよくわかりませんが全市全壊の様です」続いて参謀の方が出られ・・・「時刻は・・・音は・・・市の状況は・・」私「はっきりした時刻はわかりませんが時計が八時十五分で止まっています。音はひとつ・・・全市全壊の様です」参謀「音がひとつだと・・・それで全市全壊・・・そんな馬鹿なことがあるか・・・・」大きなどなり声が返ってきました。何か言はなくてはと思っているうちに電話はきれてしまひました。(斎藤美知子「被爆体験について」広島原爆死没者追悼平和祈念館)

 

 中国地方を管轄する中国軍管区司令部の周りには3つの軍管区司令部があった。今の福岡県筑紫野市にあった西部軍管区司令部、香川県善通寺の四国軍管区司令部、そして大阪の中部軍管区司令部だ。比治山高女の板村(荒木)さんが善通寺、大倉(岡)さんが九州と連絡をとっている。そして斎藤さんが出た電話は担当する中部軍管区司令部。これらの司令部から大本営へどんな連絡が行っただろうか。岡さんと斎藤さんの電話連絡をつなぎ合わせたら、8時15分に一発の新型爆弾で広島が壊滅したということになるのだが。ただ、参謀ではなく女学生の連絡というのがネックとなろう。

 気になることがある。電話は最初「広島がやられたさうですが」と聞いてきた。斎藤さんが連絡したとは手記に書いてない。では誰が連絡したのか。四国や九州から大阪に連絡が入ったかも知れないが、もう一つ想像されるのが、中国軍管区司令部の参謀たちが詰める防空作戦室からの電話だ。参謀たちが日常、電話連絡を全て女学生たちに任せていたとする方が不自然だろう。防空作戦室内に大本営や他の軍管区司令部などとの直通電話があっても不思議ではない。

 しかし6日当日、司令部庁舎内で被爆して一人だけ即死を免れた青木信芳参謀も、被爆直後の行動については何も証言を残さないまま8月30日に息を引き取っている。中国軍管区司令部防空作戦室で原爆さく裂の直前直後に誰がどんな行動をとったか、今も謎のままだ。