原爆で焼け野原となった広島を舞台に、井上ひさしさんが朗読劇「少年口伝隊一九四五」を書かれたのは2008年のこと。井上さんは2010年に亡くなられたが、「少年口伝隊一九四五」はその後も繰り返し上演され、2013年には絵本にもなっている。
「少年口伝隊一九四五」の主人公は国民学校6年生の英彦、正夫、勝利。3人とも原爆で家族を失い、一人では生きていけないから、焼け残った国民学校の隅っこで3人一緒に過ごすことにした。
8月9日、中国新聞の花江さんが学校にやってきてメガホンでニュースを伝え始めた。新聞社も原爆で焼けてしまい新聞が出せないというのだ。
「新聞社が新聞をよう出せんいうんは、いかにも不細工な話ですけえ、きょうからは、こげえして口で伝えて歩く新聞が、ハイ、わたしたち口伝隊が、みなさんに、大事な報道をお届けすることになりました。……(井上ひさし『少年口伝隊一九四五』講談社2013)
英彦たち3人も花江さんに誘われて少年口伝(くでん)隊をやることになった。
実際、当時の中国新聞社は爆心地から900mの場所にあったので、原爆で輪転機など新聞づくりに必要な設備を焼失しただけでなく、社員114人の命が奪われた。生き残った記者がいくら伝えたいことがあっても新聞はつくれない。そこで「声の新聞」を出そうと口伝隊がつくられたのだ。中国新聞記者の大佐古一郎さんが8月12日の日記に書いている。
本社焼け跡に行く。三井、佐伯、尾山、八島くんらが、鉛筆と紙に代わるメガホンを持って口伝隊員として活躍している。この口伝隊はトラックの上からニュースを流すもので、軍の報道部にいた山本中尉らが、有事の際に憲兵隊を中心に編成することを予定していた。(大佐古一郎『広島昭和二十年』中公新書1975)
しかし原爆で軍に対する信頼は完全に地に堕ちたので、新聞社員がその役を担うことになったと大佐古さんは記す。
「少年口伝隊一九四五」に出てくる花江さんのモデルは、おそらく上記4人の中のただ一人の女性、八島ナツヱさんだろう。八島さんたちは毎日、負傷者の収容先、食糧の特別配給、被害の状況などを肉声で伝えて回った。(「中国新聞」2021.4.5〜7)
中国新聞社の記録『もう一つのヒロシマ』によると、口伝隊の隊員が手分けして回ったのは比治山、饒津(にぎつ)公園、東西の練兵場といった被爆者の多く集まった場所、そして焼け残った郊外の住宅地などだった。「二、三日でクタクタに疲れ、声も枯れてしまった」が、情報に飢えていた人たちの評判は良かったという。(御田重宝『もう一つのヒロシマ』中国新聞社1985)
そして口伝隊はニュースの最後に必ず「決して心配はありません」と付け加えたという。「心配はありません」は、「民心ノ安定」を図るという当局の方針に沿ったものではあったが、焼け野原にとどまる多くの人たちにとって、励ましはやはり必要だったのではあるまいか。
口伝隊の仕事で毎日焼け野原を回った八島さんにも吐血や血便という「原爆症」の症状が出ている。核爆発の現場で情報を得ることは命懸け、また伝えることも命懸け。でも誰かがやらなければ、残された人たちには絶望しかない。それとも、何があったかもわからないまま息絶えてしまうのか。