人類の自殺88 情報途絶2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

原爆ドームの前には昔から階段状の雁木(がんぎ)がある

 ある日突然に閃光が走って遠くに巨大なキノコ雲が見えたならば、核攻撃があったことぐらいは容易に想像できるだろう。しかし、爆心地がどこで、その規模、高度(空中爆発か地表爆発か)、こっちに「死の灰」はやって来るのか、来るとしたらいつ頃? 救援するにしても避難指示を出すにしても、一刻も早く情報収集しなければならない。

 けれど、後で書くけれど、この時通信や放送は途絶えているかもしれない。となれば誰かが行って調べるしかないが、そうなると残留放射線による被曝の心配がついてまわる。

 1945年8月の広島では原爆さく裂後の市内に入った多くの人が後に「原爆症」に苦しんだ。当時18歳だった義之(ぎし)榮光さんもその一人。陸軍船舶練習部第十教育隊に所属し、ベニヤ板製モーターボート(「マルレ」)に乗って水上特攻の訓練をしていた。8月6日午前11時過ぎ、第十教育隊の斉藤義雄隊長は、「広島市は全滅的打撃を受けた。君の部隊は、訓練も大切だが一時中止して、全力を以て、広島市の救援に行け」と命令を受けた。

 義之さんたちがマルレに乗って江田島の基地を出発したのは昼過ぎ。本川を遡ったとの証言に従えば、相生橋のところで元安川に入ったことになる。

 

 石段があるんですよ。そこを(上陸して)トコトコ、トコトコと上がって行くと、産業奨励館(現・原爆ドーム)であったんですよね。「奨励館の所へ出て来たな」と、その時はもうボーンボーンと燃えているわけです。燃えているのはいいんだけども、人の姿が何も見えない。「これだけの街の中で、人の姿が見えないというのは、いったいこれはどういうことなんだ」と。

 それでよくよく見ると焦げてね、真っ黒焦げになったものがボコンボコンとある。「これは人でないのか」と、「そうらしい」と。「ええ? 人ってこんなに黒焦げになるものか?」と。(義之榮光「投下直後の広島で見たもの」NHK戦争証言アーカイブス2016)

  

 この時、義之さんはかなりの被曝をしたはずだ。また翌日から似島で負傷者の看護にあたり、火葬や遺体を埋める中でも被曝した可能性がある。

 9日に義之さんは高熱が出て倒れた。下痢や脱力感の症状もあり広島赤十字病院にしばらく入院した。復員後も発熱や下痢などの症状は残り、視力の障害や毛穴からの出血もあった。(『広島原爆戦災誌』)

 

Q:お医者さんに診てもらったこともあるんですか。

 あります。いろいろな医者にかかりましたよ。外科系、それから整形外科、眼科、耳鼻咽喉科、不思議と呼吸器系の方には、かかりませんでしたな。ただねえ、ここのところにありますね、胆のう。これが時々、ひどく痛んでねえ、これをとうとう取ってもらいました。痕がありますよ。これ。ここからずっと、これだけ。そして、胆のうを取った。

Q:それは何か原因が分かったんですか。

 分からない。分からない。何をやっても、「原因不明」。(「投下直後の広島で見たもの」)

 

 今後核戦争を心配するならば、防護服や防護マスク、線量計を至る所に用意し、放射線の知識と防護の技能を備えた専門家が数多く配置されなければならないことになるのだろう。