半地下壕の小さな窓
どうして原爆の警報が出なかったかについては、前にブログ「『軍都』壊滅 最後の軍隊」や「8時15分に警報は鳴ったか?」に書いている。とにかく日本の戦争そのものが無理に無理を重ねているので、空襲に備える設備も体制もあまりに貧弱だったというほかない。それは陸軍の中国地方の心臓部とも言うべき半地下壕が原爆にあった時の様子を見てもよくわかる。
中国軍管区指令部指揮連絡室。ピカッと光った瞬間まっ暗になった。”B29”の警戒警報を送信している最中である。ピカッ!電気のショートかと思ったとたんドカーン。机上の電話機はふっとび、もちろん机もとばされた。立ち込めるホコリで一寸先も見えない。気がついたとき日頃習った通り指で目と耳をおおっていた。(荒木克子「軍管区指令部に動員されて」旧比治山高女第5期生の会『炎のなかにー原爆で逝った旧友の25回忌によせてー』1969)
中国軍管区司令部の半地下壕は広島城本丸跡、護国神社のすぐそばにある。爆心地からは750mという至近距離だ。それでも100キロ爆弾の直撃にも耐えるという厚さ75cmの鉄筋コンクリートの天井が原爆の熱線や初期放射線を遮ったのは間違いあるまい。しかし爆風の侵入を防ぐことはできなかった。岡ヨシエさんの話では、半地下壕の窓が開いたままになっていたのだ。
原爆が炸裂したとき、地下壕の窓は開いていました。ふだんは空気の入れかえのために全開にして、警報が出たら閉めることになっていたのですが、あの朝は「交替が来ない」と待ちわびているところに敵機が来て、さらに「警報の指令が出ない」ことに気をとられていたために、窓が開いていることを完全に忘れていたのです。(指田和『ヒロシマのいのち』文研出版2017)
当時半地下壕の中で勤務していた落合秀明さんの手記によると、荒木さんや岡さんたちがいた指揮連絡室の隣の防空作戦室では、警戒警報が出た時は係の兵が窓を覆う分厚い扉を閉めていたという。ところが原爆の時は3つある扉の1つを閉めたところで閃光が走った。(落合秀明『ある被爆者の人生』私家版1995)
岡さんは、半地下壕はとても頑丈に造られていて、至近距離に爆弾や焼夷弾が落ちても火も煙も入らないようにできていると聞かされていたようだ。しかし、頑丈なはずの半地下壕も、窓を開けて換気しているのでは、いざという時に閉めるのを忘れてしまう可能性はいつでもある。市内で一番守りが固くなければならない防空作戦室だが、これでは原爆はもちろん、通常の爆撃でも本当に爆風を防ぐことができるのかどうか疑問だ。
呉海軍鎮守府のかつての防空指揮所は地下にあって幅15m、奥行き43m、高さ最大8.8mという巨大なかまぼこ型をしている(「中国新聞」2023.11.3)。実際に見比べてみれば、中国軍管区司令部防空作戦室が貧弱なのは一目瞭然だ。その時代の人たちは広島が「軍都」だと自慢していたが、その実態については何も知ってはいなかったのだ。