被爆建物をどうする⁉︎ 5 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

かつての防空作戦室

 国の史跡として保存されることになった中国軍管区司令部の防空作戦室は半地下壕になっていて、地上から小さな階段を降りたところに出入り口がある。中の様子は広島市文化財団広島城の『しろうや!広島城 No.45』(2015)に詳しい。

 壕に入って最初の部屋は情報室だ。中国5県各地に100か所以上あった防空監視哨から送られてくる敵機の情報から、比治山高等女学校の生徒が24時間体制で担当して、半地下壕の一番奥にある防空作戦室の地図に取り付けられた豆電球を光らせた。豆電球が次々と点滅することで敵機の侵入の様子がわかる仕組みだ。

 情報室の次には狭い通信室がある。ここでは陸軍直属の防空監視哨からの無線通信を通信兵が受けていた。

 その次に指揮連絡室があり、一番奥の広い防空作戦室には中国軍管区司令部の司令官や参謀長、参謀たちが詰めた。当時比治山高女3年生だった岡(旧姓 大倉)ヨシエさんは防空作戦室について、「天井に蛍光灯がずらりと並び、とても明るかった」「壁と天井はコンクリートがむき出し。壁に中国地方の地図が貼られ、部屋の中央に円卓があった」と証言されている(「中国新聞」2016.6.13)。この部屋で参謀たちは敵機侵入の情報をもとに警戒警報や空襲警報の発令や解除、防空情報の発信などを行なった。

 警報が発令されると指揮連絡室や情報室にメモや電光板で伝えられ、女学生や軍属によって広島中央放送局や行政機関、近隣の軍管区司令部などに連絡された。岡ヨシエさんは指揮連絡室で電話交換機を担当していて、広島中央放送局、県庁、市役所、軍需工場、陸軍病院などに連絡した。指揮連絡室では他に同級生の恵美(旧姓 西田)敏枝さんたち4人が他の軍管区司令部や軍事基地との直通電話を受け持った。

 半地下壕の中は8月5日夜から6日朝にかけて大忙しだった。山口県の宇部、愛媛県の今治、また兵庫県の西宮一帯に立て続けに空襲があり、中国軍管区司令部は徹夜で警報や情報を出し続けた。

 

 六日、午前四時頃、一応警報がとかれ、師団長閣下以下皆自宅や兵舎にひきあげられた。そして七時過ぎ、又敵機が広島の上空へ近づき、警報が出され、その後日本海へ脱出し、旋回中ということで警報もとかれた。私達も交代で朝食をとり、帰宅の準備を始めていたが、その頃又、「先の敵機が反転して広島県へ侵入しつつあり。」との情報で又、警報が電光板に出された。「八時十三分広島県警戒警報発令。」私は宇品高射砲と吉島飛行場への二つの電話に電送を開始した。その時が八時十五分。(恵美敏枝「通信室・終戦まで 」旧比治山高女第5期生の会『炎のなかにー原爆で逝った旧友の25回忌によせてー』1969)

 

 この時、岡さんは交換機に一度に数本のコードをさして一斉に相手を呼んだ。そして「広島山口、警戒警報発令」を言いかけた途端ものすごい閃光が走った。爆風に吹き飛ばされて岡さんは意識を失い、原爆の警報は半地下壕の中に永久に埋もれてしまった。