災害時に負傷者を救助するには路上の障害物を撤去し車が何とか通れるようにしなければならない。これを啓開と言うのだそうだ。ところが、これが簡単ではない。
1945年8月に広島市中心部で啓開にあたったのは陸軍船舶練習部第十教育隊。内実はベニヤ板製のモーターボートに爆雷を積んで敵艦に突っ込む水上特攻隊だ。
西塔光喜さんは先発隊で市内に入った。
正午前、爆心地到着。四方火の海。我々も身の危険を感ずる。
道路には焼けただれた死体が累をなし、傷者のうめき声は地獄からの声であった。
爆心地に到着後、直ちに傷者の救助に当る。私達は四人一組で、主としてタンカを持って重傷者を医療所まで運ぶ。その数多く誰を先にしたらよいか苦しむ。(「被爆者救援活動の手記集(暁部隊)」『広島原爆戦災誌』)
山村重定さんらが市内に入ったのは昼前だった。
炸裂後、三時間しか経過していない広島市内は、地面が焼け土のように熱く、己斐行き(違うかも知れない)の標示をした電車が爆風で三十メートルも飛ばされており、線路もアメのように曲り、又、どうした訳かなくなっている箇所もあり電車路を北上しようとしたが歩行困難であった。負傷者を一定の箇所に運びながら、先ずふさがった道路の(幹線)開通を目標と定められた。山あり谷ありで、全く道路一本に三時間もかかり、午後三時頃ようやく軍用トラックが通れるような道路となった。(「被爆者救援活動の手記集(暁部隊)」)
柴田富雄さんは翌7日も啓開をしたと証言する。
昨日も随分整理したようだが、今こうして、あたりを見まわすと整理した範囲は僅かなものだ。飯をくったあとだけに、作業にも自然気合がはいる。散乱する電柱、トタン、壁板、瓦等を道路の両側に運ぶ。道路の整理は急を要する。一同黙々と作業に従事する。(「被爆者救援活動の手記集(暁部隊)」)
啓開と言っても、まずは道路に横たわる負傷者の救護だ。救護は近未来に核戦争が起きた時も、自動車が入れないのだから同じように手作業となり時間がかかるのではなかろうか。火の勢いが弱まってからでないと動けないし、さらに、当時は放射能の知識がなかったが今はそうではない。
爆心地ゾーンに防災要員が入ることは、少なくとも被災後数日間はほとんど不可能であり、被災者の指示・誘導を行うことはできない。(広島市国民保護協議会核兵器攻撃被害想定専門部会『核兵器攻撃被害想定専門部会報告書』2007)
しかしそれでは助かるはずの人を助けることができないと、すぐさま救護に入ったとしても、数え切れないほど多くの負傷者を医療機関に繋げる手立てがない。
昔は搬送もかなり乱暴だった。原爆で重傷を負った寺前妙子さんは比治山橋のたもとでトラックに詰め込まれた。まるで材木を積み込むように。
ふと太い男の人の声で気がついた。何かに乗せられていることを知った。車が揺れるたびに傷に響いて痛む。
「バカ、痛いじゃあないか、この傷がわからんのか」
下の方で声がする。
「済みません」
「済みませんで済むかー、気を付けえ」
また別の声。
「痛いよー痛いよー お母さんー」
「やかましい、痛いなあ、みんなおんなじじゃ我慢せい」(寺前(旧姓 中前)妙子「師とともに泳ぐ」広島市原爆体験記刊行会『原爆体験記』朝日選書1975)