旧日本銀行広島支店
原爆がさく裂する際に放出する放射線を「初期放射線」と言う。ウラン235が核分裂の連鎖反応を起こしてピカッと光った時にはもう飛び出している。
初期放射線には中性子線とガンマ線がある。中性子は原子核を陽子とともに構成するが、それが核分裂によって飛び出す(中性子線)と、電気的に中性なので物質をすり抜ける力が強い。そして他の原子核と、いわば「正面衝突」した時には、その原子核に取り込まれ、取り込んだ原子核はガンマ線を放出する。
ガンマ線とは、原子核から放出される電磁波(波長の短い光)だ。X線とは発生の仕組みが違うだけ。中性子線と同様、透過力が強い。
これらの放射線を浴びると人の細胞は傷んでしまい、強い放射線を大量に浴びれば命が奪われる。
放射線を防ぐ手立てはないのか。そのヒントとなるのが、爆心地から東に380mのところにある旧日本銀行広島支店だ。鉄筋コンクリート製の地上3階地下1階の建物で、堅牢なことでは当時広島市で随一だった。
「ごついですねえー」
窓から半ば身を乗り出すようにして、壁の厚さをしらべていた庄野さんが、感嘆の声をあげた。
「四〇センチ……いやもっと……厚いとこだと七〇センチくらいありますかね……。これだから、あの衝撃波にも耐えられたんでしょうねえ……。一平方メートルあたり十九トンの風圧ですからねえ、あの時……。それに、……あれだね、この部屋の窓は小さいんですねえ、六つしかないしねえ……」(NHK広島局・原爆プロジェクト・チーム『ヒロシマ爆心地 生と死の40年』日本放送出版協会1986)
当時、この建物の3階には広島財務局が疎開していた。1945年8月6日の朝、電車通りに面した(爆心地に向いている)直税部の部屋、部長の川村孝さんは窓から街を眺めて深呼吸し、壁際の机に戻ってさあ仕事に取り掛かろうとしたその時だった。
パッと眼を射る白紫色の閃光・・・・今でも眼底に残るスパークの様な鋭い光線・・・・を右窓に感じた。ハッと顔をそむけるのと窓という窓から鉛の塊を投げ込まれた様なダッダッダッという爆風とは同時であったと思います。喉の焼きつくような苦しさに我に返った私は、大声で同僚の名を呼びつづけました。しかし答えるものは、地獄の底から湧き上がる呻吟と号泣を一緒にしたようなあの凄惨なウオーという音のみでした。(川村孝「原子爆弾の記録」日本銀行広島支店『みたまやすかれ 被爆物故職員三十三回忌追悼』1977)
その時、室内には川村さんを含めて16人いたとされる。その多くが窓から入ってきた熱線と放射線をまともに浴びた。そして金網入りの厚さ1cmもあるガラス片が爆風で飛び散って人の肉に食い込んだ。6日の日に6人死んでいる。ある人は全身黒焦げになり、ある人はお腹が裂けて死んでいたという。爆風で机も椅子も何もかもが吹き飛んだから、それに叩きつけられたのが致命傷ということもあっただろう。
川村さんの席は部屋の隅だったので熱線を直接浴びるのを免れた。しかし爆心地からの距離380mなら秒速280mにもなると言う爆風は部屋の中で荒れ狂い、川村さんの後頭部から背中にかけて150個ものガラスによる裂傷で全身血だらけになった。そしてしばらくすると放射線の症状が現れてきた。