広島二中慰霊碑(裏面)と広島国際会議場
これまでの研究では、原爆がさく裂したときに放出される放射線を爆心地から1km以内の屋外でまともに浴びたら100パーセント助からないとされる。実際にはどうなのか。これがなかなか難しい。近距離で被爆したら熱線でも爆風でも殺されるからだ。それでも、わずかながら言い残した人たちがいる。
8月6日の朝、広島二中1年生が中島新町、本川の土手で整列していると、B-29爆撃機が黒いドラム缶のようなものを落としたのが見えた。爆心地からの距離は約480m。
生徒が死ぬ間際に語った言葉がいくつか残されている。下野義樹君は「爆発と同時に、黒く焼けた人が多かった」と言い、酒井春之君は「川にとびこむとき、一瞬、うしろをふりかえったら、レンガのへいが倒れるのが見え、逃げおくれた友だちが、たくさんその土けむりの中に消えた」と話している。(広島テレビ放送編『いしぶみ 広島二中一年生全滅の記録』ポプラ社1970)
全身大火傷ながらも即死を免れた生徒たちは懸命に我が家を目指した。石井義治君は本川の土手で一夜を過ごし、7日の午後に通りかかった兵隊に頼んで父親の勤める工場に連れていってもらった。
わが子とはいいながら、かわっていないのは声だけでした。たきだしのおもゆを食べながら、父ちゃん、これはおいしいよ、と喜びましたが、みなまで食べませんでした。
夜おそくまでいろいろ話しかけ、広島は恐ろしいところよ、と何度も何度もいいました。
いなかに行こうよ、帰ろうよ、というのを寝かせましたが、八日朝七時に死にました。(『いしぶみ』)
一杯の重湯も食べ切ることができなかったのは、放射線のせいかもしれない。義治君の意識はしっかりしていたが、意識が混濁したまま死んでいった生徒もいる。松井昇君は7日の昼前に自宅に連れて帰ってもらったが、その日の午後に友だちが見舞いに来た時はまだ元気があった。
三時ごろ、みんなが帰っていくときには、オーイ、あすは水浴びにいこうや、と大声でいっておりましたのに、その後、病状が悪化して、二時間後の午後五時には、進め、進め、やっつけろ、と手をしきりにふりまわし、最後には、お母さん、おばあさん、とそれこそ声をかぎりに肉親の名を呼びつづけて死にました。(『いしぶみ』)
日本で「原爆症」研究の先駆けとなった都築正男は、1925年にアメリカに留学した時にウサギの全身にX線を照射する研究をした。周囲の反応は「人体が放射線を一度に浴びることはあり得ない」と冷淡だったという。(中国新聞ヒロシマ50年取材班『検証ヒロシマ1945-1995』中国新聞社1995)
しかし、広島・長崎への原爆投下、核実験、原発などでの事故と、人類はこれまで何度となく大量の放射線を放出する過ちを犯してきた。1999年9月30日の東海村臨界事故で被曝した大内久さんの被曝線量は20シーベルト前後と見られている。当時最先端の医療でも、なす術はなかった。(NHK「東海村臨界事故」取材班『朽ちていった命 被曝治療83日間の記録』新潮文庫2006)
広島の原爆なら、爆心地から800mあたりで何も遮るものがないと、これぐらいの被曝になる。これが500mなら100シーベルトにもなり、それが広島二中1年生の浴びた放射線量だ(広島市国民保護協議会『核兵器攻撃被害想定専門部会報告書』広島市2007)。放射線だけでも、助かる可能性は全くなかった。