「軍都広島」と言う場合、日本の侵略戦争、加害責任について考える時に使われることが多かろう。また原爆と結びつける人も多かろう。『チンチン電車と女学生』や『原爆供養塔』など広島の原爆を深く掘り下げたドキュメンタリーの作者である堀川惠子さんの、これまた力作『暁の宇品』の序章にはこう書かれている。
——人類初の原子爆弾は、なぜ“ヒロシマ”に投下されなくてはならなかったか。
本書の取材は、このシンプルな疑問を突き詰めることから出発した。
多くの人は、広島が国内有数の軍事都市であったからと答えるだろう。確かに広島の中心部には旧日本陸軍の最強師団のひとつと言われた第五師団があり、アメリカ軍の本土上陸を迎え撃つための第二総軍司令部も置かれた。(堀川惠子『暁の宇品』講談社2021)
しかし、「軍都広島」と言っても日清・日露戦争と太平洋戦争末期ではかなり状況が違う。一括りにはできない。何より広島市に原爆が投下された時、そこに第五師団はいなかった。第五師団は1937年の日中戦争の開始とともに中国に渡り、さらに東南アジアに侵攻した。最後は太平洋の島々にいて、第五師団として再び広島に戻ることはなかった。
重箱の隅をほじくるようなことと言われるかもしれない。しかし第五師団がずっと広島にいたのなら、次の沼田鈴子さんの心の痛みはなかったはずだ。
「軍国少女だった私は、第十一聯隊の兵隊さんが宇品から出征していくたびに、どうか手柄を立ててほしいと祈って、お見送りをしたものです。その兵隊さんが女性や子どもまで虐殺していたとは……。ショックでしたよ、それは。マレー半島で何があったのだろうか、くわしい事実を知らなければならないと思いました」(広岩近広『被爆アオギリと生きる 語り部・沼田鈴子の伝言』岩波ジュニア新書2013)
「第11聯隊(連隊)」は第五師団の配下にあって広島市で編成された部隊だ。マレー半島で現地の人たちを組織的に虐殺している。戦争中、沼田さんはそのことを知らされなかった。けれど心から健闘を願って送り出した兵隊が実はとんでもない酷いことをしていたと知った時、知らないうちに犯していた自分自身の罪として感じられたのではなかろうか。
これから一人の被爆者として世界の平和を求めていく時、日本(自分はこの国の一員なのだ)が、戦争でアジアの人たちをいかに傷つけてきたかということから目を背けるわけにはいかない。そしていつまでも無知のままでいることは、マレーの被害者の存在を全く無視することになるのだ。
沼田さんが取り組んだことは、まず事実を知るということだった。
しかし、「知る」ということは難しい営みだ。原爆とは何か、戦争とは何か。途方もなく大きなものを自分一人の目だけで確かめたり、自分一人の体験だけでわかろうとするのは無理というものだろう。
沼田鈴子さんが戦争とは何かを知る旅の様子は、『被爆アオギリと生きる 語り部・沼田鈴子の伝言』などの本に詳しく描かれている。沼田さんは広島を飛び出し、韓国、中国、マレーシアなどアジア各地を回った。そこで出会った人たちに自分の心のうちをさらけ出し、その人たちの心と直に触れ合うことによって、ようやく事実とは何かを知ることができたのだった。