「軍都」壊滅109 「軍都」の虚実1 | ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 私が「軍都」という言葉を知ったのはかなり前のこと、日清戦争の時の広島を取り上げたNHKの番組からだった。その時、なるほど確かにその頃の広島は「軍都」だったと納得した。しかし、考え違いがあったことに気がついたのは数年前。これもNHKのある番組がきっかけで、そのホームページを見たら戦争中の「中国新聞」の紙面が掲載されており、大きな字ではっきりと「広島県には広島と呉と軍都が二つもある」と書いてあったのだ。それまで私は、「都」というぐらいだから広島は「軍都」という他にない特別な存在だったのだろうと勝手に思っていた。しかし実際には「軍都」と呼ばれた町は戦争中の日本にいくらでもあったらしい。

 呉市は、呉海軍鎮守府、呉海軍工廠の設立とともに作られた。日本海軍の一大根拠地として発展し、1945年の人口は被爆前の広島市を上回っていたと言われる。「軍都」と呼んでも何らおかしくはない。

 一方の広島市は日清戦争以後、日本陸軍の派兵基地、物流の拠点として軍関係施設が集中した。広島城址の大本営の建物や比治山の御便殿(天皇の休憩所)は日清戦争時に天皇が広島に来て大元帥として指揮をとった記憶を市民に長年に渡って植え付けた。そして市内中心部の大きな旅館、市の東西にあった遊郭、いくつもの高級料亭などに象徴される、軍隊に依存した市の経済。また軍国主義教育も徹底されている。そんなところから我が町の軍隊を誇りにし自慢するための「軍都」という言葉が広まり定着したのではなかろうか。

 しかし市民の軍隊に対する尊敬の念や信頼は不変ではなかった。逆に、戦争が激しくなると軍の締め付けが強まって市民の不満が鬱積していく。

 

 私はいやになって正月この方の軍のあり方を恨んだ。弾圧につぐ弾圧、お粗末な補助憲兵がたくさんできて何をするやらわからなかった。うっかり物がいえなくなっていた。(蜂谷道彦『ヒロシマ日記』朝日新聞社1955)

 

 そして原爆によって軍隊はその権威まで失う。

 

 十メートル先の路上で男女がいい争っている大声がする。破れた将校服に軍刀を杖にした若い軍人と、顔に血の流れた跡はあるが元気そうなもんぺ姿の主婦である。

 「……とにかく、お前たち軍人のやり方がわりいけえ、こういうことになったんじゃ」

 「自分たちは陛下のご命令通りにしてきたまでだ」

 「ばかをいうな。警報も出さんで……それがご命令か。この怪我人や町の中で焼けて死による人がわからんのか。兵隊さんや、わしゃあ恨むぞ……。子供や主人をどうしてくれるっ!」

 「それはアメリカへいうことじゃ。自分らは責任をとっていつでも切腹してみせますぞ」

 「そうじゃ、腹を切れっ!腹を切れっ!くやしいーっ!」(大佐古一郎『広島昭和二十年』中公新書1975)

 

 軍隊の権威が失われ、「軍都広島」の誇りも消え失せた背景には、ただ原爆のせいだけでなく、その当時すでに「軍都」そのものが壊滅しつつあったせいもあるだろう。「軍都」とは何かを知るために明治維新にまで遡り、アジアでの侵略戦争の跡を辿り、東京や大阪、呉など他の軍事都市にも目を向けてみることが必要と気づき、幾らかでも取り組んでみて、私はそう思った。