「軍都」壊滅108 最後の軍隊24 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 四國直登は、山口勇子『おこりじぞう』や峠三吉『原爆詩集』(私家版)の絵で知られる四國五郎の弟だ。五郎には二人の兄と二人の弟がいたが、中でも3歳年下の直登と一番仲が良く、五郎が兵隊に取られる前、将来は二人で画家を目指そうと誓い合った。

 直登は日記を書いていた。8月6日の日記は最初に「広島大空襲さる 記憶せよ!」と大書してある。日記は8月14日になってまとめて書いたようだが、続けて、幟町国民学校の兵舎で仮眠を取っている最中に被爆して左足を大けがしたことが書いてある。動けないのでその夜は京橋川に架かる常葉橋のたもとに横たわり、7日の夕刻になってようやく出汐町の我が家に戻った。ちょうど大正橋のところで出会った友人で同じ特設警備隊に召集されていた堤武博さんが、そこから自転車に乗せて連れて帰ってくれたのだ。

 

 「オーイ、どうしたんヤー。まだ家に帰っとらんのカー」

 「ホーヨ、足が痛うてノー。夕べは橋のたもとで野宿したのヨー」

 「ホーカー、苦労したノー。よし、ワシが送ったロー」

 「ホーカー、済まんノー。ホイジャー、頼む」

と言って彼は私の自転車の後ろに乗った。丸二日、焼け野原をさまよっていて、相当疲れているようだった。

 「お前は元気でエーノー」

と彼はうらやんだ。(堤武博「ピカドンに耐えて」広島原爆死没者追悼平和祈念館)

 

 堤さんにとって、それが四國直登を見た最後となった。死を前にした8月26日の直登の日記。

 

 下痢、頭熱、足熱。三方総攻撃に当、疲労増大し、口中は歯や舌が黒く焼けている。一晩中で六回位便所に行く。(四國直登「四國直登の日記(翻刻)」広島原爆死没者追悼平和祈念館)

 

 どれも「原爆症」の症状。歯茎や舌が黒いのは粘膜が放射線で壊死したためではなかろうか。兄の五郎は、弟の日記の最後に「一九四五年(昭和二〇)八月二十八日 火曜日午前二時頃 苦悶の末死亡」と書き加えた。

 四國五郎はシベリアに抑留され、広島に帰ることができたのは1948年11月だった。その時に弟の死を知らされる。

 

 “畜生ッ!”腹の中の臓物の全部がぐらぐらとからみ合ってねぢれ合いなにもかも興奮が一所くたになって何でも握っているものをヘシ折ってしまいたい怒りがカッと湧き上がる(四國五郎「わが青春の記録」「中国新聞」2015.1.30)

 

 四國直登は絵が好きでマンドリンも習いたかった若者。母を愛し兄や弟を大切にする18歳だった。しかしそれがずっと18歳のままとなってしまった。

 四國直登は当時普通の軍国青年でもあった。ポツダム宣言受諾の報には「夕方頃より変な噂を聞。事実でなき事を祈る」と日記に書き、8月21日には「敗戦の今日、我が忠勇無比な特攻隊は無念に思ひむぜひ (むせび)泣いて居る事であらう。幾多の玉砕の将士、ラバウルの勇士、無念で有る。精神、正義の皇軍も物量の前にはくっぷくのやむなきにいたる」と書いた。

 四國直登は新たな時代に立つことができなかった。何が本当のことだったのかと問い直すこともできなかった。かけがえのない人生が戦争によって断ち切られた。

 

 兄の五郎はこう書き記す。「私は広島に住みヒロシマに生きる以外のことを考えることができなかった」「死んだ人びとに代わって絵を描こう。戦争反対・核兵器廃絶を。芸術になろうが、なるまいが…」(四國五郎 画集「四国五郎平和美術館」「中国新聞」2015.1.30)

 

 四國五郎はその決意のもと、89年の人生を走り抜いた。