「軍都」壊滅111 「軍都」の虚実3 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 事実を知るということは根気がいる。そして知ったつもりになることが一番怖い。事実誤認があれば、それに基づく主張も間違ってしまうことになる。あるいは自分の主張を押し通したいがために事実を見極める眼が曇ってしまうこともある。これらは他人事ではない。

 英文学者で広島大学名誉教授の松元寛さん(1924-2003)が書かれた『新版広島長崎修学旅行案内』は1982年に初版が出て1998年に新版となり、2012年には12刷となったロングセラーだ。多くの人が手にしたその本には、1945年に第二総軍司令部が置かれた広島市についてこう述べてある。

 

 こうして一九四五(昭和二〇)年八月六日には、広島は東京とともに日本内地における最重要軍事拠点となり、広島を潰すことは、日本の西半分を麻痺状態に陥れることを意味するようになっていました。アメリカ軍は、そのような広島を、原子爆弾第一号の標的にしたのです。(松元寛『新版広島長崎修学旅行案内』岩波ジュニア新書1998)

 

 そしてアメリカ軍が投下した原子爆弾は当時の島病院(当時)の上空で炸裂したのだが、松元さんは、「目標である第二総軍司令部を中心とする軍事施設からわずか数百メートル外れたところに投下されている」とされ、アメリカの原爆投下は軍事目標を狙った、国際法に違反しない、正当な作戦だったと主張される。

 しかし、広島駅裏にあった第二総軍司令部と島病院との実際の距離は1800mだ。かなり外れている。果たして第二総軍司令部を狙ったといえるだろうか。アメリカは知っていたのだ。原爆は都市全体を破壊する兵器であることを。

 事実誤認として他にも問題がある。「広島は東京とともに日本内地における最重要軍事拠点」というところだ。東京の市ヶ谷台に置かれていたのは第一総軍司令部だけでなく、その上位にある大本営もあった。さらに陸軍省や参謀本部も置かれ、市ヶ谷台こそ日本陸軍の中枢だったのだ。原爆は軍事拠点を狙ったと言うのならば、どうして東京は原爆投下目標にならなかったのか。不思議に思われなかったのだろうか。

 アメリカ航空軍による空襲の当初の目標は主に東京、名古屋などにあった航空機工場だった。しかし高高度から爆弾投下しても大して成果が上がらないとわかると、市街地に焼夷弾を大量に投下する無差別爆撃に切り替えた。市民の大量虐殺が空襲の目的となり、原爆の使用もその延長線上にあったとみていいだろう。

 広島で自らも被爆しながら負傷者の救護に奔走した神父のひとりヨハンネス・ジーメスはこう述べている。

 

 もしも我々が近代的な全体的戦争を是認するならば、その論理的帰結として、とうぜん非戦闘員の殺傷を非難することはできなくなるということである。(中略)

 しかし全体的戦争というものは、それによって獲得されるはずのあらゆる善よりもはるかに大きな物的ならびに倫理的悪を、当事国の国民に不可避的にもたらすとは言えないだろうか。(J.ジーメス「原爆!」カトリック正義と平和広島協議会『破壊の日-外人神父たちの被爆体験』1983)

 

 広島、長崎への原爆投下の狙いを見誤ることは、今現在、そしてこれからの「近代的な全体的戦争」では、どれだけ多くの市民を虐殺するかが勝敗を決するという悪夢を容認することにつながっていく。