「軍都」壊滅74 食糧1 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 昭和天皇の弟である高松宮に仕えて情報収集にあたった細川護貞の日記には、1944年10月10日の那覇空襲について次のように書いている。

 

 …家は焼け食糧はなく、実に惨憺たる有様にて、今に至るまでそのままの有様なりと。而して焼け残りたる家は軍で徴発し、島民と雑居し、物は勝手に使用し、婦女子は凌辱せらるヽ等、恰も占領地に在るが如き振舞にて、軍紀は全く乱れ居り…(細川護貞「細川日記」 藤原彰編『沖縄戦と天皇制』立風書房1987より)

 

 日本軍は沖縄で「占領地に在るが如き振舞」をしたとある。それは中国、東南アジアにおける日本軍の蛮行であり、それがその後の沖縄戦においても続けられ、そして「本土決戦」でも起きたかも知れないのだった。しかし沖縄で何があったかを知るのはごく一部の人間だけ。知らされない多くの国民は、戦争は今どうなっているのかという不安と不満を胸の奥に溜め込んでいった。

 中国新聞記者の大佐古一郎は5月31日の日記にこう書いている。

 

 …国民が知りたがっているのは「戦局はどうなっているのか。果たして軍艦があるのかないのか。連合艦隊は? 大和は? 列車に乗ると海が見えないように板囲いで目隠ししているが、なぜ国民に見せぬのか。敵には空からゆうゆうと見物させておいて……」ということである。(大佐古一郎『広島昭和二十年』中公新書1975)

 

 戦艦大和がアメリカ軍機の攻撃によって沈没したのは1945年4月7日。しかし国民がその事実を知ったのは戦後になってからだった。

 日本のSF小説の始祖と言われる海野十三が日記に沖縄戦について書いている。

 

 七月十四日

 沖縄は去月二十日を以て地上部隊が玉砕し、二十六日にはそれが発表された。「天王山だ、天目山だ、これこそ本土決戦の関ケ原だ」といわれた沖縄が失陥したのだ。国民は、もう駄目だという失望と、いつ敵が上陸して来るか、明日か、明後日か、という不安に駆りたてられている。(海野十三「海野十三敗戦日記」青空文庫)

 

 羽柴秀吉と明智光秀の戦いを描いた江戸時代の軍記物語に「天下分け目の天王山」と出てくる。天王山での戦闘が両軍の勝敗の行方を決めたというのだ。ということは、天王山の戦いといわれた沖縄戦で負けたからもうおしまいだと国民が落胆するのも当然だろう。しかし政府や軍部はそれでは困るから、海野十三の日記によれば、沖縄戦は実は天王山でも関ヶ原でもなかったと前言をあっさり翻したのだった。

 しかしそうなると天王山はこれからもあることになるが、それでは国民は納得できなかった。多くの国民はすでに追い詰められていたのだ。

 大佐古一郎によれば、大人はこれまで主食(米、麦、芋など)の配給が1日あたり2合3勺(345グラム) だったのが、7月11日からは2合1勺(315グラム)になった。米1合(150グラム)を炊いたら、お茶碗に軽く2杯のご飯になるが、おかずが少なかった昔なら、子どもでもお腹を空かせてしまうだろう。

 

 最後の一線といわれた二合三勺を削るこの現実、日本もとうとう食糧面でも土壇場に追い込まれた。(『広島昭和二十年』)

 

 「とうとう」ではない。戦場では兵士も民間人もずっと飢えに苦しめられていたのを知らなかっただけ。そしてついに「本土」にも、飢えが先陣を切って上陸してきたのだ。